【THIS WEEK】山谷の歴史と、山友会の始まり

2018.4.30 | CATEGORY : THIS WEEK COLUMN

今週、JAMMINが1週間限定でチャリティーキャンペーンを展開するのは、東京・山谷地区にてホームレス支援を行うNPO山友会さん(団体紹介ページはこちらから)

山谷の歴史と山友会の始まりについて、インタビューさせていただいた山友会の油井和徳(ゆい・かずのり)さんに聞きました。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO

「山谷地区」の歴史

(山友会の事務所前。路肩に椅子を並べて、来所者がくつろげるようになっている)

──なぜ山谷地区には路上生活者が多いのですか?

油井:
ここ山谷は、江戸時代には日光街道と奥州街道沿い宿場街である千住宿の外れに存在し、昔から「木賃宿(きちんやど)」と呼ばれる安宿が多く並ぶ地域でした。木賃宿には、行商人や旅芸人などが生活していたようですが、なかには離村した農民などの無宿人も生活していたようです。

明治以降、東京が市街化していく過程で、仕事を求めて地方から上京した人や、生活困窮状態にある人が多く暮らすようになりました。

戦後は、戦災被災者で何もかも失ってしまった人を受け容れるための宿泊施設が作られることもありました。戦後から復興していく過程でも、多くの生活困窮層の人々が山谷地域の宿で暮らしていました。なかには、生活に困窮した母子家庭もあったようで不就学児への教育支援や女性の就労支援などが行われていたこともあったようです。

こうした歴史を踏まえると、様々な軋轢や葛藤などがあったのだとは思いますが、結果的に社会的弱者を受け入れ続けてきた地域でもあると思います。

──そうだったんですね。

油井:
昭和30年代の高度経済成長期あたりから、土木や建設関係で働く日雇い労働者が多く集まるようになりました。しかし、平成3年のバブル崩壊以降、仕事を失った労働者の人たちの多くが、路上生活を余儀なくされるようになってしまいました。

活動の始まりは、ホーレスのための無料診療所

(山友会代表のルボ・ジャンさん。皆にとって家族のような存在だという)

──そんな中で、活動を始められたんですね。

油井:
当時は任意団体でしたが、有志の医師たちとクリスチャンの方たちが集まって、1984年に路上生活者のための無料診療所を開設しました。病気をしたり怪我をしたりしても、保険証を持っておらず一般の病院で治療を受けられない人たちが多くいたんです。

1970年に宣教師としてカナダより日本に来ていた現代表のルボ・ジャンも、活動を始めた頃から活動に加わり、代表に就任しました。

右も左もわからずに来日したジャンは、日本に来たばかりの頃、とても孤独な思いをしたようです。言葉も通じず、知り合いもおらず、話し相手もほとんどいない…。山谷の日雇い労働者やホームレスの人たちの姿が、どこか自分の姿と重なり、深く共感したようです。

(90年代のころの山友会。代表のジャンさん(右)と山友会クリニック看護師長(当時)リタ・ボルジーさん(左))

その人が本来持っていた笑顔を取り戻してもらうために

今では、山友会に集う人たちにとって家族のような存在であるというジャンさん。彼がいることもあって、山友会はいつも和気藹々としたフレンドリーな雰囲気に溢れているそうです。

今回のインタビューで、いつも笑顔で楽しく応えてくださる油井さんと後藤さんのお二人に、その雰囲気を感じ取りました!

「一緒に関係を築きながら、その人が本来持っていた”笑顔”を取り戻してもらいたい」という山友会さんの活動について、そして山友会さんへのチャリティーの使途について、詳しくはTHIS WEEKの団体紹介ページよりご覧くださいね!

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大きな鍋を一緒に囲み、食事をしながら楽しくおしゃべりしたり、くつろいだりしている動物たち。
「一緒にご飯を食べる」ことを通じて、人とのつながりや明るい未来が生まれる様子を表現しました。

“Eat together, smile together”、「一緒に食べて、一緒に笑おう」というメッセージを添えています。

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