2014.11.22 | CATEGORY : MAGAZINE
今週のチャリティーテーマは住宅建設の支援。NPO法人ハビタット・フォー・ヒューマニティの活動コンセプトは住宅を作るだけでなくその人らしい豊かな暮らしを送ることにあります。
その背景を理解するためには、家がない人に話を聞くのが一番わかりやすいはず! そんな想いからJAMMINでもお世話になったNPO法人Homedoor協力のもとホームレス経験のある澤本さんにインタビューをしてきました。
様々な経験をされた澤本さん。その暮らしと住居の関係について、澤本さんの半生を振り返ってもらいました!
—–お生まれになった家はどこだったんですか?
「生まれは大分の別府。酪農と農業をしている家に生まれました。その敷地内の家で私、両親、兄の4人で住んでいました。仕事柄、食べ物に困ることなかったです。親がすごく厳しくて父が食べ終わるまでは箸がつけられないような厳格な家庭でした。
その後、親が土地と建物の権利を詐欺にあって失い借金生活が始まりました。後から土地を借りた人が温情で間貸しをしてくれたのでそこに住んでいました。」
—–学生時代はどんな家に住んでいたのですか?
「高校へ入るまではそこで暮らしていたのですが、入学とともにバイトを始めました。朝は新聞・牛乳配達、昼は学校、夜は鉄工所・ホテルという無茶苦茶な生活をしてました。」
—–借金を返すためですか?
「彼女と一緒にアパートで暮らしていて結婚する資金を貯めるためでした。半年で100万円ぐらいは貯めました。」
—–その時の澤本さんにとって住居は幸せそのものだったんですね
「彼女と暮らしたアパートはボロボロでしたが将来の幸せのために頑張るための場所、という感じでした。家へ帰るのは1時過ぎだったので、すぐ寝ちゃってましたけど笑」
—–高校からその先はどうされたんですか?
「大分の間借りしていた部分を借り主が農地にどうしてもしたい、との事だったので出て行かざるを得なくなりました。兄が大阪でガラス職人をしていたのでそれを頼って家族で大阪へ来ました。」
—–その時も家族4人で暮らされたんですか?
「いや、兄は違う場所に住んでいました。両親と私の3人で大阪の長屋で暮らしてました。」
—–見知らぬ大阪。そして久しぶりに家族での生活。色々大変だったんではないですか?
「両親とは借金のこともありあまりいい関係ではありませんでした。しかし両親と一緒に暮らすことで何か話を深くする訳じゃなくても、落ち着くというか、不安は少なくなっていたと思います。そこはやっぱり家族ですから。ケンカする相手がいるってだけで幸せですよ。」
—–なるほど。その後の暮らしはどうだったんですか?
「警備の仕事を合計で10年ぐらいしました。自由が欲しかったので一緒にアパートを借りたり、その後結婚をして子どもいました。
その後、転機になったのは左目を視力がどんどん落ちて見えなくなってしまったこと。仕事が続けられなくなってしまいました。」
—–そこから路上生活が始まったんですか?
「いや、まだです。目が見えなくても出来ることがあると道端で教えられて、給料が良かった長野県内のダムの建設現場で働きました。プレハブ小屋で40〜50名で共同生活をしました。そこがまた壮絶な場所でした。
まず、親方が作業の効率が落ちるからって安全防止の道具をつけさせてくれない。目の前で数名が100m下の崖へ落ちていきましたね。私も目が見えなかったので命懸けでした。」
—–共同生活をした時の住居は振り返ってみてどうですか?
「辛い思い出しかないですね。そもそも日給2万円、住居費5千円、食費5千円ですから。住居っていっても締めただけの土の上にむしろがひいてあるだけ。食事も白飯とちょっとしたおかずだけでした。ビールも1缶千円、たばこも1箱千円でした。
あとは、夜がものすごい長かったことも覚えています。山の中で娯楽ないので博打を始めるのですが胴元は百戦錬磨の建設業者。作業員の中には借金をして数ヶ月タダ働きをしている人もいました。」
—–その後はお仕事はどうされたんですか?
「兵庫の建設現場で働きました。目が見えないことを親方に見つかりクビになってしまいました。そこから全く仕事に付けず路上生活が始まりました。」
——そこからはどんな場所にいたのですか?
「最初は商業施設のトイレで寝ていました。洋式の便所に逆向きに座ってタンクに頭を乗っけて寝ていました。」
(トイレで寝ていた時の様子を再現)
「その後警備員から当然追い出され、梅田周辺を歩いていました。
路上生活の最初はためらいがあって中々路上で寝ることに抵抗があったのですが、どうしようもなかった。ダンボールや資材を集めて梅田のオフィスビルの下で寝ていました。」
——当時の暮らしで思い出深いことはありますか?
「ある日寝ていた時に何か暖かいなと思っていたら酔っ払ったおじさんから小便をかけられていました。さすがにこの時は情けなくて、みじめで。猫を飼いながら暮らしていたのですが、その猫に”昔はよかったね”と語りかけながら泣いていました。」
—–その後今の生活に辿り着くまではどうでしたか?
「ビッグイシューという仕事を始めたのがきっかけでした。雑誌を売りながら少しづつ社会へ復帰していきました。今はHomedoorで自転車整理やシェアサイクル事業を手伝いながら、生活保護をもらって生活しています。生活保護ももらうのが情けなくてずっともらっていなかったのですが、周りの方からの助言もあり仕事をしながら何とか暮らしています。」
—–最後にお聞きします。澤本さんにとって住居ってどんな意味を持つものでしょうか?
「住居に大きさや形は関係なく、誰と何をその場所でするのか。そこが一番大事です。私にとって住居は家族そのもの。家族と一緒にいればしんどくても笑顔になれる。住居にはそんな意味があると思います。」
—–少し意地悪な質問です。A:一人で雨風がしのげる場所で住む、B:家族一緒にいれるけど路上で暮らす、どっちを選びますか?
「もちろんBです。家族がいればまた頑張れますし。アメリカのホームレスは一人じゃなく家族一緒に行動するそうです。私の意味で言うとそれは住居と同じ機能。ある種幸せな暮らしだと思います。」
—–貴重なお話をありがとうございました!
いかがでしたでしょうか? 様々な暮らし経験した澤本さん。「住居とは家族そのもの」そう語る時の穏やかな話しぶりがすごく印象に残りました。
きっと、家族で過ごす時間やそこで流れる空気や臭い。その一つ一つが人生を豊かにする。そして住居は豊かにすることを手助けする大事なもの。そんな想いを強くもちもったインタビューになりました。