2017年に世界銀行と世界保健機関(WHO)が発表した報告書によると、世界人口の半数にものぼる人々が、予防接種などの基本的な医療保健サービスを受けられていないといいます。
今週JAMMINが1週間限定でコラボするのは、NPO法人「BRIDGE(ブリッジ)」。高知を拠点に、ブラジルやコンゴの医療が発展していない地域を訪れ、現地の方たちに医療を届ける活動をしてきました。
「世界の医療格差をなくしたい」。そう話すのは、ブリッジ代表であり医師の関博之(せき・ひろゆき)先生(63)と、医師としてブラジルで慈善法人を立ち上げ、現地で活動してきた森部玲子(もりべ・れいこ)先生(56)。
ブラジルでの活動、そして医療の現場について、お話を聞きました。
(お話をお伺いした関先生(写真左から二人目)、森部先生(写真左端))
NPO法人BRIDGE
世界中のすべての人が、健康で安全な生活を送ることのできる世界を目指して活動する医療協力NPOです。高知県南国市にある高知大学医学部を拠点に、主にブラジルでの医療支援を行っています。
INTERVIEW & TEXT BY MINA TANAKA
RELEASE DATE:2022/6/27
(現地での活動の様子。森部先生が日本からの協力を得て2003年5月に開業した「ギアロペス医学診断センター」は、近代的な診断装置を導入した診断検査機関。センターで内視鏡検査をする医師)
──今日はよろしくお願いします。最初に、団体のご活動について教えてください。
関:
世界には、日本のように十分な医療を受けられない地域がたくさんあります。ブリッジは、すべての人々が健康で安全な生活を送ることのできる世界を目指して活動する医療協力NPOです。活動地域は主にブラジル、過去にはコンゴでも医療支援をしていました。
──具体的に、どのような課題があるのですか。
森部:
ブラジルにはSUS(スス)と呼ばれる公的な医療保険制度があります。日本の国民医療保険のようなもので、憲法によって、教育と医療は無料と定められています。
しかし、医療に対する国の予算が十分に確保されていないので、公立病院で診ることのできる患者数に限りがあり、医療にかかりたくてもかかれない人たちがたくさんいる現状があります。
(ギアロペス医学診断センターにて、無料検査を待つ患者たち)
森部:
予算が限られているので定員に達すると病院が診療を締め切ってしまうので、何年も何年も順番を待ち、本来治るはずの病気やケガで命を落としてしまったり、医者にかかった時にはもう手遅れという状態の方たちも少なくありません。
昨年、新型コロナウイルスに感染した妊婦さんが、病院をたらい回しにされた挙句に自宅での出産を余儀なくされ、新生児が亡くなったニュースが大きく報道されましたよね。
実はブラジルではコロナ流行以前よりこのようなことが日常茶飯事で、帝王切開で出産できたはずが、病院に受け入れてもらえずに赤ちゃんが亡くなるということが起きています。骨折しているのに、適切な処置をされないまま放置される患者さんもいます。
(ギアロペスの市が運営する公立病院。ここで現在受けられるのは、外来と簡単な外科手術のみ)
関:
国の制度だけでなく、そもそも十分な医療設備が揃った病院が足りていないという課題もあります。同じブラジル国内でも、リオデジャネイロのような大都市と地方では医療的に大きな格差があり、地方の病院は設備がないために重病患者を受け入れることが難しかったり、地域によっては、近くに病院自体がなかったりすることもあります。
私たちが活動している南マットグロッソ州のボニート地域では、九州ほどの広さに12万人ほどが住んでいますが、設備のない病院しかありません。重症の患者がなんとか時間をかけて州都の病院へ行っても、すでにいっぱいで診察もしてもらえない。コロナ前から医療崩壊が起きているんです。
(活動拠点である南マットグロッソ州ギアロペス市の中心部の公園。図書館とカトリック教会がある)
(現地の人たちの暮らし。「先住人であるインディオの村では現在も、竹の壁やシュロの葉で拭いた屋根の家で過ごす人もいます」)
関:
貧富の大きな格差も、背景にある課題のひとつです。ブラジルは貧富の差が大きく、富裕層は約5%で残りの約95%は貧困状態にあると言われています。
経済的に余裕のある方は民間の保険に入ることができるので、医療設備が十分に揃っている私立病院で医療を受けられます。また、たくさんお金を払えば、必要な時に医師に診てもらうこともできます。でも、ほとんどの人にそんな余裕はありません。
──なるほど。背景には貧困の問題もあるのですね。
そうですね。子どもたちも一家の労働力として働き、学校に行けないことが多いです。
私たちが活動するこの地域の識字率は50%以下で、お年寄りの方たちはほとんど字が書けません。
教育を受けることができないために、貧困が連鎖することも課題です。
(インディオの村で医療奉仕をした際の一枚。村の子どもたちと森部先生)
──現地の方は何で生計を立てて暮らしているのですか。
森部:
この地域はパンタナール世界自然遺産になっており、ボニートはその中でも美しく透き通った川で有名で世界中から観光客が訪れるため、観光業に携わっている人が多いです。
近くに工場などもないので、あとは農業ですね。牛を飼ったり庭で植物を育てたりして、ほぼ自給自足の暮らしをしています。
(「ギアロペス市の隣にあるボニート市の川はクリスタルの色で天然水族館になっています。シュノーケルをつけて体を川の流れに身を任せていくと、素晴らしい癒しの効果があります」)
(ギアロペス医学診断センターは、この地域で唯一、上部下部内視鏡を実施できる施設として周辺7都市の12万人の地域医療に貢献している)
──そのような場所で、活動を始められることになったきっかけを教えてください。
森部:
主人の仕事の関係で妊娠9ヶ月の時にこの地域へ引っ越してきた私は、1997年に第一子を出産しました。それが活動の大きなきっかけになっています。
難産になり、帝王切開をすることになったのですが、病院には必要な何の設備もなかったんです。「ここで帝王切開をするなら、私が死ぬか子どもが死ぬかだな」と思いました。「それだったら私が死のう」と、覚悟を決めて出産に臨んだことを覚えています。
──そうだったんですね。
(第1子を出産して間もない頃、お子さんと)
森部:
その時に執刀医として子どもを取り上げてくださったのが、その後一緒に活動することになる外科医のホベルト・サラビ・ソウザ先生でした。ホベルト先生はお金がなく医療が受けられない人たちのためにあちこちを跳び回り、無料で診察や手術をしていました。
命がけの出産の経験を通してブラジルの医療の現実を知り、「医師であり現地にいる私が何とかするしかない」と思っていた時に、ホベルト先生から、「人々のために検査センターを作ってほしい」と相談を受けたんです。
検査を受けるだけでも何年も待たなければならない現地の人たち。「検査センターがあれば、その待ち時間を短縮できる」と。そこで、日本の医師の先輩方に相談し、たくさんの援助を受け、2003年に医学診断センターを開業しました。
(「ギアロペス医学診断センターの土地はギアロペス市から病院の隣の土地を寄付していただき、建物は日本からの多くの善意ある方からの寄付で建設をすることができました」)
関:
最初は、森部先生がブラジルと日本を行き来し、日本で医師として出稼ぎをして、またブラジルへ戻って医療のために私財をつぎ込み借金して…と個人で活動されていました。それを知ったブリッジ創設者であり、菅沼成文先生(現在は高知大学医学部教授)が「ひとりでブラジルの医療を支えるのは難しい。支援する団体をつくろう」と2001年に任意団体としてブリッジを設立したんです。
資金的な援助を行いながら、コロナ前は日本の先生方と毎年現地に足を運び、医療奉仕を続けてきました。
(現地の方たちと協力しての医療奉仕。左から2人目が、BRIDGE創設者の菅沼成文先生)
(ギアロペス医学診断センターで診察を担当するユリ・アウメイダ医師)
森部:
ホベルト先生は医療改革を掲げ、2001年にはギアロペス市長になられました。しかし2013年、ホベルト先生が殺されるという痛ましい事件が起こりました。
ブラジルだけでなく、隣国パラグアイのためにも活動していたホベルト先生。ブラジルよりも劣悪な医療環境をなんとかしたいと、パラグアイで診療所を開設するためのお金を持ち歩いていた時に、それを察知したのか、強盗殺人に遭い、首をナイフで斬られて亡くなりました。
──ええっ、そんな…。ショックだったのではありませんか。
森部:
ものすごくすごくショックで、「もう活動を辞めよう」と思いました。でもその時に、菅沼先生や関先生が「辞めないで頑張ろう」と励ましてくださったんです。
(「口の中の扁桃腺にゴルフボール大の振り子状の腫瘍がくっついていて窒息する恐れがあったため、緊急手術を行った患者さんです。たとえこのようなケースであっても、ブラジルの現在の医療の制度では、手術は順番待ちで、何カ月先になるかわかりません」)
──関先生はどのような思いで声をかけられたのですか。
関:
森部先生がそれまで、自分のありったけを投資してものすごく頑張ってこられたことをずっと間近で見てきていたので、積み重ねて来られたものに花を咲かせてあげたい、咲かせなければと。「ここで辞めてたら、森部先生が森部先生ではなくなってしまう」と思ったんです。頑張っている人を見たら応援するし、応援したくなるでしょう。その気持ちです。
森部:
お二人をはじめ本当にたくさんの方に助けていただき、ホベルト先生の遺志を受け継いで、活動を続けてくることができました。
日本の医師免許しか持っていなかったので、ポルトガル語も勉強しながら10年かけてブラジルの医師免許も取得しました。子どもたちがまだ幼かった頃、出稼ぎのためにブラジルを離れる時に「お母さんはどうして私たちを置いて、ブラジルの人のために日本に行くの?」と言われたこともあります。でも、頑張る後ろ姿をずっと見ていてくれたんですね。子どもたちも今はブラジルで医師の道を志しています。
(ギアロペス医学診断センターの医師や職員の皆さんと)
(2017年、ギアロペス医学診断センターを訪問して無料診療をした際に、地元の保健課長より感謝状が贈られた)
──これまでの活動で、印象的だったことはありますか。
関:
私は耳鼻科が専門なのですが、現地の歯科の診療所をお借りして、日本から持っていった数少ない道具で診察をした時のことです。
遠い日本からお医者さんが来るというので、現地の方たちは一張羅を着てオシャレをし、女性や子どもたちはうっすらお化粧をして診察に来てくれました。地球の裏側から、まるで何でも治してくれる魔法使いがやって来たかのように、キラキラした期待を持って歓迎してもらったのが嬉しかったですね。
──日本とは異なる環境での診察ですが、診察にあたって意識されていることはありますか。
(現地での診療の様子)
関:
日本だったら、「次回の診察で」と患者さんにまた来てもらうことができますが、ここではそれができません。私たちが日本に帰った後、現地の方たちの暮らしがより良いものになるように、診察では「自分でできる対処法」をお伝えするようにしていました。
私は慈恵医大の出身なのですが、慈恵医大では「病気を診ずして病人を診よ」という建学の精神があります。その言葉の通り、一人ひとりに寄り添い、その人やその人の暮らしにとって、より良い方法を一緒に考えることを大切にしています。
(「ボニートでは、澄んだ水の中の手の届きそうなところを、大きな魚が泳いでいます」)
──森部先生はいかがですか。
森部:
ある時、「子どもたちを置いてまで日本へ行って出稼ぎして、ブラジルの医療のために無料奉仕して、どうして私はこんなことをしているんだろう」と思ったことがあったんです。それで近所の方に「私がここまでするべきなのかな」と相談したことがありました。
すると彼女は「もし私があなたのように日本の医師免許を持っていて、日本に帰ってお金を稼げるなら、私が代わりに日本へ行きます。世の中には食べるものに困っている人、学校に行けない人、着るものさえない人もいる。豊かな国に生まれて学校に行かせてもらったなら、社会のために尽くすのが当たり前」といわれたんですね。
最初はムッときたけど(笑)、考えてみたら、確かにそうだと思うんですね。
周りの人々が貧困と病苦で苦しんでいる中で自分だけ豊かに幸せになることは不可能ですから。今回コロナ禍で私たちは地球村に住む運命共同体地球家族であることが明らかになりました。世界中の人を助けることが、自分を助ける道でもあるのではないでしょうか。
(「ブラジルのホテルのモーニングもバイキング形式ですが、日本でよく食べるサラダが全くありません。その代わり、フルーツがたくさん並んでいます」)
(「ギアロペス医学診断センターから車で3時間も走ると、世界自然遺産に登録されている世界最大の大湿原のパンタナールがあります。船に乗ってパラグアイ川を登っていくと手つかずの大自然があり、その感動は、行ってみないと言葉では表現できません」)
──今後の夢を教えてください。
関:
地域の中核となるような病院をつくりたいと思っています。
すでにお伝えしたように、現地の方たちが経済的な理由から医療にアクセスしづらいという課題があります。この辺りに広がる大自然を取り入れたメディカルスパを運営し、そこから収入を得ながら、一方で地域の方たちに医療を提供していきたいと考えています。
医療とは、患者さんに希望を与えることだと最近思うようになりました。本人に「治そう」とか「治りたい」という力がなければ、病気は治りません。本人が持っている能力を目覚めさせる、そのための勇気を与えられることが、本来の医療なのだと思う。そうやって勇気づけてあげられる場所を、ブラジルにも作っていきたいと思います。
(建設を目指す、病院とメディカルスパの鳥観図)
森部:
現地の手付かずの自然は、本当に力強く、パワーがあって元気がもらえます。訪問する先生方からも「一生分の疲れと恨みが取れた」と(笑)。「日本で10年かけても良くならなかった病気が、ここだと良くなるかもしれない」とも。私も最近この自然の力をすごく感じていて、いつかはブラジル国内だけでなく、日本からも来ていただけるような施設を作りたいと思っています。
──最後に、読者の方へメッセージをお願いできませんか。
関:
日本では医療も当たり前のように受けられますが、世界を見るとそうではありません。
ホベルト先生は強盗殺人で亡くなりましたが、他人から奪わなければ生きていくことさえ難しい人たちがいます。きれいごとでは済まされない世界があるのだということをまず知ってほしい。そしてそんな人たちも豊かになれるように、一人ひとりができることや得意なことで、一歩を踏み出せたら良いのかなと思っています。
私は医療関係者なので、医療の分野でお手伝いをしていますが、きっと皆さん一人ひとりに、与られた力、貢献できる何かがきっとあると思います。
(インディオ村の家族。「現在も3代が一緒に住む大家族。力を合わせてたくましく生きています」)
森部:
ブラジルは、日本の次に日本人が多い国です。
その昔、移民として多くの日本人がブラジルに移り住みました。日本人としての誇りを胸に、必死に土地を開墾し、自分たちの食べるものは我慢してまでも子どもたちを学校に通わせて、地道な、血の滲むような努力と苦労の末に今の暮らしを築き上げてこられました。
ブラジルには日系のお医者さんも多く、ブラジルの方たちは、日本人に対して、勤勉で真面目、正直で信用できるといった印象を抱いています。何もないところから築き上げてきた先輩たちの後を汚さないように、私たちも出来る限りのことをしていきたいと思っています。
(2016年10月、BRIDGEが事務所を置く高知大学が南マットグロッソ州連邦大学へ内視鏡を寄付し、第1回上級内視鏡手術の研修を実施した)
(「朝、外に出ると、どこからか飛んできた鳥が頭に止まってくれました。その時に撮った一枚です。自然からも歓迎されているように思いました」)
──最後に、チャリティーの使途を教えてください。
関:
チャリティーは、ブラジルの方たちの医療を支えるために、現地での医療活動資金として活用させていただきます。この地域の困窮している患者さんたちの無料診療と検査をするために毎月60万円ほどが必要になります。ぜひアイテムで応援いただけたら幸いです。
──貴重なお話をありがとうございました!
(2017年、インディオの村で医療奉仕を行った際に、スタッフの皆さんと!)
インタビューを終えて〜田中の編集後記〜
風邪を引いて熱が出た、つまずいて怪我をした、健康診断を受けた…、これまでの生活を振り返ってみると、いかに多くの場面で自分が医療にお世話になってきたかを痛感しました。みなさんはどうですか?もし病院に行けなかったらどうでしょうか?
今回のインタビューで、病院に行けることが当たり前ではない地域があると知りました。
「この地域に生まれたから」「この家に生まれたから」ではなく、すべての人が安心して医療を受けられるように活動するブリッジさん。これからも活動を応援していきたいです。
ブラジルを代表する鳥・オニオオハシが聴診器を持っています。
ただ医療を届けるだけではなく、国境を自由に越え空を飛ぶ鳥のように、国の違いや課題を乗り越えながら、架け橋となって人々の健康で安全な暮らしを守るBRIDGEさんの活動を表現しました。
“The bridge to tomorrow”、「明日へ架ける橋」というメッセージを添えています。