CHARITY FOR

原発20キロ圏内の町で、震災を生き延びた牛たちと人も動物も自然も豊かにする「持続可能」な暮らしを発信〜もーもーガーデン

東京電力福島第一原子力発電所のある福島県双葉郡大熊町。
東日本大震災から11年、まだ帰還困難区域が多くあるこの町で、草を食べる牛の習性を活用しながら土地を維持し、さらに豊かに循環させる取り組みを行う人がいます。

今週、JAMMINがコラボする「もーもーガーデン」代表の谷(たに)さつきさん(39)。
静岡出身の谷さんは震災の直後、働いていた東京で被災地の牛や馬が餓死する映像を見て、原発事故のため避難指示が出され、無人と化してしまった域に取り残された動物たちをなんとか救いたいと活動を始めました。

一頭でも多くのいのちを救いたいと焦る一方で、マンパワーの限界を感じていた谷さん。
ある時、牛たちがいる場所だけ土地がすっきりと美しく保たれていることに気づき、「この方法で牛たちを生き残らせながら、土地を維持することもできないか」と思いつき、現在の活動を始めます。

活動について、お話を聞きました。

(お話をお伺いした谷さん。もーもーガーデンにて、オスの「カール」と。「カールは、東日本大震災で牛舎の壁が崩れたために奇跡的に山へ逃げて生き延びることができた3頭の牛のうちの一頭を母親として生まれました。殺処分柵を見破る卓越した頭脳を持ち、ボスとして群れを率いていた母親と2013年に保護されますが、母親が帝王切開後の事故で亡くなってしまい、その後2年ほど食欲がありませんでした。今は周りの他の牛たちに励まされながら草を食べるようになり、丸々と大きくなりました。母親代わりに世話した私に非常に懐き、言葉を理解し、心配したり、甘えたり、すねたり、表情も豊かです」)

今週のチャリティー

もーもーガーデン(一般社団法人ふるさとと心を守る友の会)

東日本大震災をいのちからがら生き延びた牛たちに毎日お腹いっぱい草を食べることで活躍してもらい、人と動物、そのほかの自然が互いに助け合いながらいきいき輝く空間を作りたいと活動しています。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2022/3/28

※風評被害を避けるため国による厳格な管理が敷かれ、被災家畜は原発から20キロ圏内のみでの飼育が義務付けられています。もーもーガーデンのある大熊町野上姥神は帰還困難区域に区分されましたが、山から吹き降ろされる強風に守られて、放射線量が奇跡的に低い場所となりました。
空間は毎時0.2マイクロシーベルト。少し前のいわき市や郡山市、福島市より低く、避難指示を解除され人が住む地域と同じレベルです。
他にルールとして、①被災家畜の原発から20キロ圏外への移動禁止、②出荷禁止、③繁殖禁止、④大きなおうし座の焼き印つけ、⑤牛情報が全てトレース可能な耳標装着、⑥家畜保健衛生所による定期検査、⑦その他の飼養管理基準等細かく定められています。
もーもーガーデンでは、この農水省のルールと帰還困難区域のルールの下、被災家畜が自然に寿命を全うし、老衰で亡くなるまでこの地域で終生飼養管理しています。

牛の習性を活用し、土地を豊かに再生する

(2メートル近くある荒れ地の象徴「セイタカアワダチソウ」を喜んで食べる牛の「ミルクティー」)

──今日はよろしくお願いします。最初にご活動について教えてください。

谷:
福島県双葉郡大熊町にある「もーもーガーデン」で、震災を生き延びた11頭の牛たちと一緒に、動物の習性を活用したエコモデルを実践しています。
牛は草や木の葉を食べる習性があります。そこを活用し、放牧しながら牛さんたちに草や木を食べてもらい、土地を保全するだけでなく、その土地が本来持つ力を引き出し、いのちを循環させながら、動物と人、自然が共栄できるモデルを作りたいと活動しています。

(もーもーガーデン最年長の「片美」(メス)。「2006年生まれの片美は、ここ大熊町野上の牛舎で母親と一緒に飼育されていました。地震と原発事故で牛舎が崩壊し、数十頭飼われていた中で生き残ったのは僅かでした。片美は負傷し、片目・片角になりながらも何とか山へ逃げて一命を取り留めましたが、最愛の母親は2012年に亡くなりました。久しぶりに母親と暮らした牛舎へ戻った際、昔居た自分のブースへ入り、遠くを見て大量の涙を流し続けていました。自分も目が痛くてつらいはずなのに、自分の子どもだけでなく、他の孤児たちの面倒も見るとても優しい牛です。高齢でハンディもあるため配慮していますが、白髪と、一人のゆっくりとした行動が増えました。写真は緑のトンネルを抜け、草刈りのお仕事から寝床へ戻ってくるところです」)

谷:
福島県大熊町は、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機がある場所です。2011年の東日本大震災で第一原発の事故が起きた後に避難指示が出され、町は警戒区域となり、立ち入りが制限されるようになりました。

農業や酪農で暮らしてきた人たちが町から着の身着のままで避難された後、飼われていた牛たちは水や食べ物をもらうことができず多くが餓死したり、町をうろついて側溝や沼に落ちたりして死ぬこともありました。

一方で人が消えた農地や山、人家の庭なども管理する人がいなくなり荒地化していました。
本来人が居てようやくメンテナンスでき成り立っていたものが、人がいなくなった途端、荒れゆく一方になってしまったんです。
牛たちにお腹いっぱい草を食べてもらい、彼らのいのちを守りながら、土地をも生かす。
震災のあった2011年の末からこの取り組みをはじめて10年以上になります。

(もーもーガーデンにて、雑草を食べる牛たち。「地域の方々の大切なふるさとを守っている牛たちです。熊や猪等の野生動物から守り、生態系のバランスを整え、人と動物と自然が調和する空間になっています」)

牛がいることで、土地環境が改善される

(山林化していた農地。「3メートル以上のジャングルのような草と蔓の藪でした。歩けず、息もしづらい状況でした。花や果樹も雑草や蔓藪に覆われ、光合成できず死んでいきました」)

谷:
大熊町は今も多くの場所で住民が帰宅することが難しい状況ですが、震災後、土地は荒れてしまっていました。生い茂る草を牛が食べることで、人の手が入らなくなった土地を良い形で維持するだけでなく、豊かに循環させながら、新たなかたちで再生しています。

自然界のシステムは、動物がいて初めて成り立つものなのだということを実感しています。
荒れ放題の土地では背が高く生命力の強い植物が一帯を覆い、背の低い植物には日光が届かずに育ちませんでした。しかし牛が背の高い草を食べるようになったおかげで、多様性のある土地が蘇ってきています。牛が食べてくれることで、植物も生え変わりのサイクルを維持することができるのです。

(同じ農地のビフォーアフター写真(同じ位置からの定点撮影、牧柵杭と山の稜線が一致している)。「ビフォー写真の左側に、草の山に埋もれながら草を食べる牛の顔が見えます。牛の3倍の背丈のジャングルのような草木でも、田んぼ100枚分(1ヘクタール)の農地を、約1週間で平らげます」)

谷:
2013年に大熊町で牛による農地保全を開始した時は、2〜3メートルほどの高さのセイタカアワダチソウだらけでした。人の入らない農地は年々山林化し、2018年に新たな区画を開墾した時には、木が15メートルほどにまで成長してまるでジャングルのように生い茂っていました。

他の植物が育たないだけでなく、たとえばハンノキの幹は太く立派で、15メートル分の栄養を土地から吸い上げてしまいます。しかし牛が根っこごと倒しながら食べてくれて、環境が改善されました。

──すごいですね。

(震災前は美しく維持されていた田畑。日本は温暖湿潤気候で地力が高いので、人が手入れできなくなったその年から3メートル以上の草と木が生えてきます。セイタカアワダチソウ、ススキ、ヨモギ、クズ、ヤナギ、クワ、マツ、ハンノキ、ケヤキ等です」)

谷:
また、牛糞も大きな役割を果たしています。「施肥(せひ)」というのですが、微生物が発酵して栄養のある牛糞を、人間が手を加えずとも土地に施してくれて栄養分を与えてくれて、野菜や果実も豊かに育ちます。
牛が草を食べてくれることによって景観も良くなりますし、雑草が減るので病害虫の大量発生を抑える効果もあります。

人間が知恵を使いながら、動物に幸せになってもらいつつ、人間にとっても持続可能かつ自然の恩恵をいただけるしくみ、人も動物も楽に豊かに生きられるしくみを追求中です。

──牛はお腹いっぱい草を食べられて、人間は土地を維持する労力が省けて、土地は豊かになる。まさに三方よしですね。

(活躍する牛たち。「人が分け入って入れないくらい農地へも、牛は目を輝かせて入っていく。人にとっては嫌な雑草が、牛にとってはごちそうの山のようでした」)

人がいなくなった地域に取り残されてしまった牛たち

(「餌不足のためガリガリに痩せても、まだ人を信じて懐いてきた牛です。冬に亡くなりました」)

──もーもーガーデンのある大熊町について教えてください。

谷:
東京電力福島第一原発の事故の後、大熊町は立ち入り禁止区域となり、町民は町の外に避難しました。最初に電気が止まり、水も止まりました。牛たちはそんな中、町に置き去りの状態になりました。

原発20キロ圏内にある牛舎で飼われ続けた牛で、生き残った牛はまずいないと思います。生き残った牛は、放牧形式で飼われた牛たちです。
というのも、人間によって管理されていた牛舎の場合、給餌給水や掃除にもすべて重機やエネルギーが必要だからです。インフラが止まり、人の手が入らなくなった途端、生命の維持ができなくなってしまうのです。

──確かに…。

(2012年、安楽死、捕獲枠の中で衰弱死した子牛。農家提供分)

谷:
「残された牛をなんとかしたい」という地元の牛農家さんたちの支援で何度も町に入り、牛たちの本当に無残な姿を目の当たりにしました。ご近所様に迷惑かけないようにと牛舎につながれたまま、多くが餓死していました。

ある牛は鼻緒がつながれたまま、鼻の下が40センチも伸びた状態で死んでいました。きっと苦しくて横になりたくても、つながれているからそれもできなかったのでしょう。一気に倒れた場合は鼻の部分がちぎれるはずなので、倒れたくても倒れられず、激痛の中で衰弱死していったことがわかります。

別の母牛は、子どもにお乳をあげるためになんとか栄養をとろうとしたのでしょう。つながれていた場所のすぐそばの木の柱を懸命にガジガジと歯で削り取った形跡があり、直径40センチほどある柱が、5センチほどまでに細くなっていました。いのちが尽き果てた母牛の隣で、母牛の思いが通じたのか、子牛はかろうじて生きていました。

「福島、牛、餓死」等で検索すると画像がたくさん出てくるかと思いますが、「スタンチョン」という牛の首を挟んでつなぎとめる道具につながれたままで亡くなった牛もいました。

──…そうだったんですね。

谷:
家族同然に飼ってこられた農家の方々の心痛ははかりしれません。今でもその写真を胸に下げている方もいらっしゃいます。一生十字架を背負っていくとおっしゃった方もいました。

幼い牛には「たてご」という縄を顔に巻くのですが、一年もすれば大きくなります。外してあげられる飼い主が強制避難のため立入できず、放置され、縄が顔の肉や骨に食い込んで顔が丸くなった牛もいました。
農家さんたちとたてごをつけた牛を見つけては縄を切る作業もしました。牛はどんなに激痛だったでしょう。農家さんは涙を流しながら縄を切っていました。

飼い主の方が留まったり通ったりして餌や水を何とか与えた牛たちは、なんとかいのちを取り留めたものもいました。あるいは牛舎が崩壊して外に逃れることができた牛たちも、食べ物や水を見つけて生き残ることができたようです。

(メスの「六子」。「仲間の母親たちが餓死などで全て亡くなる中、六子も餓死するところを助けられ、2017年にもーもーガーデンへやって来ました。草がほとんど無い中を体格の大きな牛達の中で何とか生き抜いてきた気迫はものすごく、新参の牛で体も小さなメスであるにもかかわらず、戦わずして先住の800キロを越える大きな雄牛たちのリーダーになりました。人徳(牛徳?)があり、群れの信頼を集め、人のことをすごくなめてくれて『母性のかたまり』と呼ばれています。写真は、草を食むお仕事の最中、皆の昼食を用意していたボランティアに気付き、おやつを期待して熱いまなざしを向けるチャーミングな一面です」)

「本当に殺すしか選択肢がないのか」

(ミルクティーをなめる六子。「群れの中で、メス同士、オス同士、オスがメス、メスがオスをなめて毛づくろいし合っています。順位はありますが複雑で、社会性が高く、血のつながった関係以外の関係も豊かです。とてものどかな光景です」)

谷:
何の罪もないいのちが苦しみ、うめいている。現場でこの状況を目の当たりにした時はショックでした。いろんなものが整備されているはずの日本で、ここまでひどい状況だとは予想しなかったのです。
当初、私は東京で働きながら、休みをとっては福島に通うかたちで活動していました。被災地とそうではない地域のギャップも大きく感じていました。

一頭でも多く生かせるために自分に何ができるのか。とにかく現場へ行って動くしかないと思い、農家さんと一緒に現地に入っては、バケツリレーで水や餌を運びました。ただただ必死でした。

ただ、立ち入り禁止区域は滞在できる人の条件や滞在できる時間、人数も厳しく制限されていました。一時帰宅は2時間、2人まで。公益立ち入りの場合は6時間まででしたが、こちらも人数が限られていて、車と人については1ヶ月前の申請が必要だったため、物資の調達やレンタルトラックが使えずに苦労しました。

限られた条件の中で、運び込める食料や水には限界があります。死ぬ前に1滴でも水が飲みたいと思っている牛に、1滴の水をあげることはできるかもしれません。でも、生きていくためにはそれでは全然足りないんですよね。マンパワーの限界を感じていました。

──そうだったんですね。

谷:
農家さんにくっついていって町に残された牛たちになんとか給餌しながら、一方で取り残された牛の状況を把握するため、あちこちの避難所へ一緒に行って他の農家さんを紹介されては情報収集をしました。農家さんたちは皆、泣いていました。残してきた牛たちを思うあまりに精神を病んでしまった方もいました。

目の前には今にも死にそうな牛たちと、なんとかしたいと助けを求めている人がいる。そしてそれを助けたいという人や、さらには助ける技術もきっとあるはずだ。何ができるのか、と必死で答えを探していました。

実は当初、もっと早くに解決できるのではないかと思っていたんです。
取り残されてしまった犬猫に関しては環境省や動物救援本部、他のNPO団体さんなども入って救護にあたっておられたし、日本には災害時の家畜の救護に関する法律があり、この状況に対し、政治的に何らかの対応がとられるのではないかと期待したのです。しかし、すべての党を回って現状を訴え、ご理解は得られたものの、未曽有の原発事故で日本中が放射能に恐怖しており、なかなか状況が変わることはありませんでした。

唯一、震災から2ヶ月後の2011年5月12日に、「飼い主の同意があるものに関しては殺処分」という国の方針が出されただけでした。

(「1枚に898本の木が生えた元田んぼ。牛が倒し、現在は約150本以下に減りました。倒された木は牛が歩くたびに細かく砕かれ、自然に土に還っていっています。そのお仕事を見守る私も写っています」)

──ええ。

谷:
風評も激しかった広域災害のため、20キロ圏外の牛の避難ですらままならないなかで、立入制限のある20キロ圏内の牛を助ける方法は見つからなかったのだと思います。提示されたオプションは「安楽死」のたった一つだけ。本当にそうなんだろうか、本当に殺すしか方法がないのだろうかと。県や自治体も被災者なので、公助を頼れないのなら、自助でやるしかないと思いました。翌年2012年4月には警戒区域が解除されて新たな区域となり、自己責任で生かすためのルールが公示されました。

すぐにでも移住をと思いましたが、当時は避難された多くの方が住まいを探していて、地元の方でも部屋を借りることがなかなか難しい状況でした。2013年に社員寮付きの塾の講師の仕事を見つけ、採用していただいたのを機に福島に移住し、今日まで過ごしています。

(大熊町野上姥神の棚田。「この地区のご先祖様たちが一枚一枚石を並べて造り、天保や天明の飢饉も乗り越えて連綿と維持してきた美しい農地が姿を現しました。まろやかな夕日に照らされる帰り際に見られる光景です」)

牛が草をお腹いっぱい食べられて、土地も維持できる。
落合先生との出会い

(「農地のはじまり」と呼ばれる、大熊町の人里と山との間に位置する里山地区。「震災前は、その厳しい自然環境の中でも地区全体で協力して農地を美しく保ってこられた地主さんたち。見る影もなくなった田んぼのあまりの変わりように激しく心を痛めながらも、なた一本で立ち向かい、牛の牧柵を張るための道を切り開き始めました」)

谷:
マンパワーの限界を感じながら、どうすれば牛も人も幸せになれるのだろうかと模索していたある時、2011年の秋だったでしょうか。農家さんに乗せてもらった軽トラの助手席から窓の外を見てふと、牛のいる場所だけ、土地が荒れていないことに気がついたんです。

人がいなくなった後、震災後1年経たずして周辺はどこも草木が生い茂ってジャングルのような状態だったのですが、牛のいるところは草が低く見晴らしも良く、スッキリとしていたのです。

それで「この方法で何とかできないか?!」と思って。インターネットで調べると、牛に雑草を食べさせて健康になってもらいながら、耕作放棄地を解消するという手法を唱えて活動されていた、放牧アドバイザーの落合一彦先生という方がいることを知りました。すぐに連絡をとると、福島まで駆けつけてくださったんです。

(農家の方々と浪江町に作った放牧柵内にて、落合先生と谷さん)

谷:
状況をなんとかできないかと、ありとあらゆるところにアタックしましたが、返事がなかったり対象外と言われてしまうことが多かった中で、すぐ駆けつけてくださった落合先生は本当にありがたかったです。

「立ち入り禁止区域でなかなか通えず、牛たちは食べ物や水が足りていない。農家たちは泣いています」と先生に現状を話し、「雑草を食べさせて牛たちは生きられますか」と尋ねると「できますよ」と言ってくださったんです。まさに希望の一言でした。

先生に4箇所ぐらい候補地を見ていただき、井戸水のあった場所を最初の放牧地として整備し、生き延びた牛たちを集めて放牧を開始しました。2012年の2月でした。

牛が放浪して交通事故に遭うことも問題になっていたので場所を柵で囲う必要があったのですが、そのための資金を多くの方が支援してくださり、農家さんたちと一緒に作りました。

(「人のやることとしては、最初に敷地の外周だけを1メートル幅で草刈りし、その後、そこに牧柵を張るだけ。後は広大な面積を牛がきれいに平らげてくれます。写真は、避難区域の畜産農家の娘さんと、牧柵をハンマーで打っていた際の1枚です」)

(「牛が草を食べ、農地や庭が出現し、旧トロッコ道も出てきました。もともと農耕畜として牛や馬と共存していた地域でしたので、馬頭観音様の石があちらこちらに出てきました」)

循環の中に立ちかえり、
共に豊かさを手に入れる

(人が手をかけないと生きられない花の代表格、バラ。「全滅したと思われていたバラも実は生きていて、牛が雑草を食べたことで、息を吹き返しました。バラをはじめ様々な花が大輪の花を咲かせました」)

谷:
落合先生の理論を頭では理解していましたが、実際に実践してみて、牛や自然、地球のすごさを日々体感しています。目には見えない、それでも地球を動かしている大きな循環があるのだということ、その中を生かされているのだということを、牛が私に教えてくれました。

家族や仲間が目の前で人間に殺されるのを見たりして、最初は警戒心を抱いて寄ってこなかった牛たちも、大丈夫だよと話しかけたり背中を見せたりしながら少しずつ信頼関係を築いていきました。

2013年には、放射線量は低くても誰も入りたがらなかった大熊町野上で、私が責任者となって活動を始めました。
ここで放牧した2日後には、草ぼうぼうの場所の草を牛たちがあっという間にツンツルテンにぺろりとたいらげて「モ〜、モ〜(足りん〜)」と言っているのを見て、牛のことをちょっとなめていたなと思いました(笑)。

(餌は自然に生える雑草、水は山からの引水。「電気柵やIoTカメラの電力も完全自給自足できるようにしてくれたボランティアさんと牛(カール)です。地主さんたちや皆にかわいがられながら、農地保全のお仕事に励んでいます。山菜はにおいをかいで食べません」)

谷:
新たに区画を作っては牛たちが食べ、その速さやきれいスッキリ食べることにも驚き、さらに翌年やその翌々年、死んでいたと思われた生物たちが生き返る様子を見ても驚かされています。そして年を重ねるごとに、土地がまるで草原のように美しくなります。牛たちにいつも驚かされています。

しかもそれが、特に人が手をかけるわけでもなく、ほとんどほったらかしのような状態でできているんですよね。自然、その中にある循環を取り戻すことができたら、人も動物も、きっと楽になれるのではないか。循環の輪の中にもう一度、それぞれが立ちかえっていくだけで、もしかしたら私たちは共に豊かさを手にできるのではないか。そんな気がしています。

(牛が雑草を食べることによって生き返ったキウイの花。「キウイは『一度食べたらもうスーパーのキウイは食べられない』というほどおいしい大熊町の元特産品でした。高いノウハウを惜しみなく共有し町全体のレベルアップを果たした立役者の地主さん。震災前に耕作放棄地だった農地をキウイ畑にし、苗を育て、ようやく実が収穫できた頃に大震災。キウイ棚は草と蔓藪と木に覆われ、重さで崩落し、息も絶え絶えになっていましたが、再び可憐な花が満開になるまでに。出荷はできませんが、実もつきました」)

──活動を始められるまで、この地域と特にご縁があられたわけでもなく、また多くの困難があった中でも、谷さんを活動へと突き動かしたものは何だったのですか。

谷:
私がやらなければ、状況はもっと酷くなる。やめるとかあきらめるという選択肢はありませんでした。牛たちの過酷な姿を目の当たりにするたびにショックを受けましたが、だからこそ「なんとかしなきゃ、もっとがんばろう、もっと早くしなきゃ」と思っていました。とにかく必死で、ぐずぐずしたり考え込んだりしている暇がなかった。牛を目の前にして、自分のショックなんてどうでも良いという感じでしたね。

原発という人の手で高度に作り出されたもののある町から、伝統を生かし新たに始まるエコシステム。確かに活動は大震災と原発事故が起点ですが、その文脈だけでは語りきれない可能性を感じています。

(蘇ったオオデマリと。「他に桜、梅、柿、栗、ブルーベリー、キンモクセイ、サザンカ、椿、ツツジ、アヤメ、アジサイ、ユリ、キツネノカミソリ、ヤマボウシ、山菜…、多種多様な植物が息を吹き返しました。どれもこの地で自然の恵みとともに生きていた地主さんたちの人生の一部です」)

谷:
私にはいつかギネスの牛の寿命を更新したいという野望があるんです(笑)。
私は放射能が安全だと言う気は全くありませんが、ただ自然本来に近い飼い方、ストレスフリーな暮らしを送ることができたら、牛の寿命はどこまで伸びるのか、一つの幸せのために追求したいと思っています。それがきっと、牛だけでなく人の未来、この地域の未来、しいては地球の未来にもつながっていくと信じています。

──ちなみに、ギネス記録は何歳ですか?

谷:
49歳です。すごく長生きですよね。日本の家畜の牛でも22歳です。
もーもーガーデンの牛は震災を生き延びて餓死寸前だった仔もいるので、もしかしたら全員は難しいかもしれませんが、健康に長生きしてほしい。大往生させてあげたいと思っています。

(ヤナギを倒して食べる牛を笑顔で見守る隣町の作業ボランティアさん)

チャリティーは、もーもーガーデンの牛たちのための活用されます!

(「もーもーガーデン」の入り口。「もーもーガーデンは7ヘクタールの敷地です。口コミで依頼が広がり、少しずつ敷地が広がって、現在は6人の地主さんたちの場所をお借りしています。それぞれの地主さんが植えていた木々が豊かに成長しています」)

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

谷:
チャリティーは、草の枯れる冬の間に牛たちに餌をあげるための資金として活用させていただきたいと思っています。
牛を派遣できないところの耕作放棄地の草を刈っておいて、真空にして保存するための保存ラップ代、また中古で購入したトラクターが壊れがちなので、修理代として充てさせていただければと思います。そこの農地の保全にもつながります。
また、余りましたら、新たな土地へ拡大するための牧柵費用として大切に使わせていただきます。

──貴重なお話をありがとうございました!

(「力添えいただいた福島県内・県外からのボランティアの皆さんと撮った1枚です。後ろに旧トロッコ道を一列に歩く牛たちも写っています。被災しながらも奔走し、誰よりも牛を生かしたかった酪農家や畜産農家の皆様に助けられながら生きてこられた奇跡の牛たちです」)

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

牛たちにかける谷さんの思い、愛情をすごく感じるインタビューでした。
「豊かさ」とは?本当の意味での「持続可能」とは?人にとって「自然」とは?改めてそういうことを考えさせられます。いつしか人は、地球の暴君になっていないでしょうか。豊かさを盲信し邁進する先に、何かや誰かを必要以上に犠牲にしていないでしょうか。

同じ空の下、ゆったり草を食べる牛たちや、そこでやさしくそよぐ風を思い浮かべた時、ふっと軽くなるように感じるのは私だけでしょうか。

・もーもーガーデン ホームページはこちらから

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自然と共に生きる牛の姿を優しいタッチで描きました。
穏やかでリラックスした表情の牛を中心に豊かな自然を描き、牛がいることで自然の調和が整い、いのちが循環する様子を表現しています。

“We may not have it all together, but together we have it all”、「私たちはすべてを持っていないかもしれないけれど、一緒にならすべてを持つことができる」というメッセージを添えました。

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