人工呼吸器や経管栄養などが必要な医療的ケア児が増えています。在宅で暮らす20歳未満の医療的ケア児は、2020年の全国推計で約2万人と言われています。
医療的ケアがないと生きていくことが難しい子どもとその家族の「当たり前の生活」を支援したい。そんな思いで、重い障がいのある子どもの日中の預かりや外出支援などのプログラムを提供しているNPO法人「うりずん」が今週のチャリティー先。
「医学の進歩によって、ひと昔前は助けられなかった子が救命できるようになりました。病気や障がいによっては、医療的なケアが生涯にわたって必要になります。そのような子どもたちとそのご家族に、ひと時の休息を提供できたら」
そう話すのは、代表であり医師の髙橋昭彦(たかはし・あきひこ)先生(60)。栃木県宇都宮市にある、院長を務める「ひばりクリニック」のすぐそばに、「うりずん」の施設があります。
2001年9月11日、ニューヨークでアメリカ同時多発テロが発生した際、ホスピスの研修ツアーでちょうど現地にいた髙橋先生。まさに死を意識した時に、「もし日本へ生きて帰ることができたら、やりたかったことをしよう」と思ったといいます。
帰国から2週間で開院を決意し、やがて「うりずん」の活動へとつながっていきました。
活動について、お話を聞きました。
(お話をお伺いした髙橋先生。zoomでのインタビューの際も、この素敵な帽子をかぶっていらっしゃいました!)
NPO法人うりずん
重い障がいを持った子どもと家族が「普通に」暮らすことができる社会を目指し、日中のお預かり、自宅での見守り、外出などのプログラムを提供しています。
INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2021/12/20
(うりずんの外観。「日本財団さんのトゥースフェアリープロジェクトの助成をいただいて建てることができました。外観も室内も木造の温かい雰囲気になっています。外には畑があり、子どもたちと一緒に収穫を楽しんでいます。また庭の中央にはケヤキの木が植えられていて、年々大きく成長しています。施設を囲む柵はなく、地域の中で子どもたちは温かく見守られています」)
──今日はよろしくお願いします。最初に、団体のご活動について教えてください。
髙橋:
医療的なケアが必要なお子さん、「医療的ケア児」の日中一時預かりや訪問支援をしています。私たちの暮らしている地域の中に、重い障がいを抱えた子どもと、24時間その子どもをケアするご家族が暮らしています。お子さんを一時的に預かることで、ご家族がケアから離れて、一休みできる「レスパイトケア」を提供しています。
お子さんをただ預かるだけではありません。健康管理に気を配るのはもちろん大事ですが、それだけでなく、子どもたちが寂しく孤独な思いをしたりすることがないように、「安心・安全・安楽」の「3A」をモットーに、子どもたちにはここにいる間、めっちゃ楽しく過ごしてもらうことを大切にしています。
(「ボクの足、ピンク色~!」。うりずんの室内で、足型を取る制作活動をしているところ)
髙橋:
預けた我が子が寂しくつらい思いをしていたり泣いていたりすると、親御さんも罪悪感を感じてしまう。親御さんの安心のためにも、楽しく過ごしてもらうことを基本にしています。
何よりもスタッフの皆さんが楽しんでくれていて、通りかかると、時間があったら私もずっとそこにいたくなる、ワクワクする空間です。
──素敵ですね。
(「またね〜!」、うりずんに通所しているお子さんとタッチを交わす髙橋先生)
(うりずんの庭の畑で、みんなで芋掘り。「おひさまの光を浴びて、土の匂いをかいで、うんとこしょ、どっこいしょと芋を掘ります」)
髙橋:
2002年5月に「ひばりクリニック」を開業し、2003年1月に、ある人工呼吸器をつけた女の子の担当医となりました。その時に、重度の障がいのあるお子さんのいるご家族の状況を目の当たりにしました。
お子さんはまだ小さく、何かの拍子に体につないだ管が外れたり取れたりすることもあり危険ですし、たんの吸引も必要です。24時間、誰かが常に側にいないといけません。
ご家族以外は資格がないと医療的なケアを行うことはできません。もともとは病院の中で行われていた医療を家の中に持ってきたわけなので、それは大変です。
お母さんがトイレに行く時は、異常があった際のアラームの音がすぐに聞こえるようにドアは開けたまま。就寝中もずっとそばにいて、異常があった時にはすぐに起きられるようにスタンバイしています。まさに24時間、つきっきりのケアです。まとまった睡眠も十分にとることができず、それがずっと続いていく子育てを 皆さんは想像できるでしょうか。
──大変ですね。
髙橋:
また別のご家族は、平日にご自宅を訪問するとお父さんが出てきました。話を聞くと「妻は高熱を出して寝込んでいる。仕事の休みをとって、かわりに面倒をみている」と。当時、まだ簡単に仕事を休めるような時代ではありませんでした。しかしお母さんが体調を崩したら、お父さんが会社を休むしか方法がない。これは普通ではないと思いました。
それまでも「医療的ケア児を日中預かることができる場所が必要だ」という認識こそあったものの、決して自分でやろうとは考えていませんでした。「大変だ」「お金がない」「忙しい」…、言い訳をたくさん並べていたんです。
(毎年9月に開催している「うりずんふれあい祭り」にて「うりずんバンド」の一員として歌う髙橋先生。「ご利用者様、ご家族・地域の方々、誰でも参加できるイベントです」)
(「うりずん」を立ち上げるきっかけとなった、3歳から携わっているたけるさん。「たけるさんは2021年に20歳の誕生日を迎えました。3歳から20歳まで、在宅チームとしてずっと関わった訪問看護師、理学療法士、医師がお誕生日を祝いに駆け付けました。写真の中央がたけるさんで、後ろにお母さん、弟さん、お父さん。新型コロナウイルスの影響で、お父さんが手にしているワインパーティーは次の機会にお預けとなりました」)
──そのような中で預かりをスタートされたのは、どういう経緯があったのですか?
髙橋:
最初にお預かりしたのは2007 年、今もここに通ってくれている「たけるくん」という男の子です。お母さんが熱を出し、代わりにお父さんが休みをとってケアをしていたのがたけるくんのご両親です。
当時は一時預かりを支援するような制度も何もありませんでしたから、いろんな情報を集め、在宅医療助成勇美記念財団から110万円の助成を受けて、診療所の中で「人工呼吸を付けた子どもの預かりサービスの構築」という1年間の研究事業としてスタートしました。
しかし1日6時間の預かりで、1日あたりの人件費だけで2万円ほどかかり、運営は赤字状態。「これじゃあ誰もやらないし、できないだろうな」と思いました。
(「研究事業をスタートした時、たけるくんの車いすは幅も奥行きも大きく、以前の施設では預かり室に入る手前のドアの幅が足りず入れませんでした。すると『私がスロープを作りましょう』と言ってくださる方が現れ、自作のスロープをプレゼントしてくださいました。簡易スロープによって、たけるくんは室内に入ることができるようになりました。でもスロープは不安定だったので、今度は中古の手動のリフトをくださる方が現れました」)
──助成金だけでは足りなくなりますね。
髙橋:
このままでは厳しい。市役所を訪れて現状を訴えたところ、2007年秋に障がい福祉課の担当者の方が診療所に来られて、「この街に医療的ケアが必要な子どもは他にもいて、預かる場がないことも承知している。新しい制度を作りたい」とおっしゃったんです。
翌年の2008年3月には、市として医療的ケア児の日中一時預かりを支援する特別な制度、宇都宮市重症障がい児者医療的ケア支援事業ができました。この制度を作ってくださったことで、私も「やるしかない」と思い、2008年6月に「うりずん」をスタートしました。
(「たけるくんの家の前には、かつて大きなケヤキの木がありました。春には若葉、夏には青葉が美しく、秋には紅葉し、そして冬には見事な枝が空に伸びます。たけるくんの両親はこの木がとても気に入り、その向かいに家を建てました。たけるくんの部屋からは、強く穏やかに生きるこの木がよく見えました。しかし残念なことに、この木は切り倒されてなくなってしまいました。木が切られる時、たけるくんは涙ながらにアラームを鳴らして抵抗しました。今でも私たちの胸の中にケヤキがあります。この木のエピソードから、うりずんの庭の真ん中にケヤキの木を植えました」)
(うりずんの支援室の天井は、青空の壁紙が貼られている。「寝たきりの子どもは、天井を見ている時間が多いです。少しでも楽しい雰囲気が伝わってほしいという願いを込めて、天井は青空になっています」)
髙橋:
うりずんを始めるにあたって、施設のバリアフリー化などのための資金はどこからも出なかったので持ち出しでしたが、お子さんを預かると1日いくらというかたちで市から助成が出るので、なんとか黒字でやっていけるのではないかと考えていました。
しかし3年経っても4年経っても、黒字になることはありませんでした。というのも、医療的ケアが必要なお子さんはマンツーマンの手厚いケアが必要ですが、一方で体調が変わりやすく、「今日は3人くるから」と3名のスタッフで待っていても、当日になってお休みということが多くあるんです。
──そうなんですね。
(移動支援サービスでおでかけを楽しむ。「写真のみつきくんと一緒に写っているのはお母さんです。みつきくんは人工呼吸器をつけていて、お母さん一人だけでは遠くまで車でお出掛けすることは容易ではありません。この日はみつきくん、お母さんとうりずんのヘルパーの3人で、栃木県特産の益子焼体験に行きました」)
髙橋:
診療所から運営費を補填してどうにか活動を続けていました。もともと私は、自分が好きなことをやるために一代限りの診療所と考えてひばりクリニックを作ったのです。しかし赤字が続き、このままいけば私が倒れてしまう。そうするとうりずんも潰れてしまう。一体どうしたものかと悩みました。
うりずんでお子さんをお預かりした親御さんから、「預かってもらって、はじめてきょうだいの運動会に行くことができた」「ママ友のランチ会に行くことたできた」といった声も聞く中で、活動の必要性を改めて感じ、存続の道を模索しました。
──親御さんたちからも感謝の声があったんですね。
髙橋:
税制上の優遇を受けられ、寄付が集めやすくなる「認定NPO法人」になるしかないと思い、1000人以上の寄付会員さんを2年にわたって集め、2014 年に認定NPO法人になりました。そこからは何とか赤字にはならず運営できています。
(年4回発行している「うりずん通信」は、最初は「ひばりクリニック通信」として誕生。「この人なら読んでくれそうという人に送り、出会った人に手渡ししているうちに、発行部数が増えてきました。最初は手作り感満載で、たくさんのボランティアさんに助けていただきました」現在の「うりずん通信」は、担当スタッフが編集し、テーマに沿って行事や利用者の様子、スタッフの紹介などをしているという。「おかげさまで、ひばりクリニック通信として31号、うりずん通信として39号、合わせて70号を発行してきました。応援してくださる方に、感謝の気持ちをお届けする大切なツールです」)
(「北海道滝川市にある『そらぷちキッズキャンプ』に招待していただき、飛行機に乗ってご家族と一緒に北海道に行きました。ツリーハウスや乗馬体験、アーチェリーなどスペシャルな時間を過ごしました。すばらしかったのは現地のスタッフの皆さんの心配りです。私たちが限られた時間でたくさんの経験ができるようにと準備やサポートをしてくださいました。落ち着いたら、ぜひまた行きたいと考えています」)
髙橋:
もともと私は滋賀の出身で、「ひばりクリニック」を開院する以前は、栃木の病院で高齢者の在宅医療に6年ほど携わっていましたが、お年寄りに対して自分の寄り添い方を模索していました。
認知症ケアを行っている宅老所でお年寄りがやさしいケアを受けてゆったりと過ごしておられるのを見て「このようなケアがしたい」と思いました。しかし大学病院から小児の在宅医療の打診があった時、その病院も小児科医は自分しかおらず、私の留守中の対応が難しいことからお断りせざるを得ませんでした。私はどこかモヤモヤを抱えていました。
その後滋賀にUターンするのですが、そのタイミングで以前から興味があったホスピスの最先端を見学したいと、アメリカのホスピス研修ツアーに参加しました。2001年9月のことでした。
(2001年9月、日本のホスピスに関心のある医師、看護師、教員、ジャーナリストなどの関係者26人で、マザー・テレサが創設したエイズ・ホスピス「ギフト・オブ・ピース」を訪問。ツアーを率いる故アルフォンス・デーケン先生(左)と髙橋先生)
髙橋:
9月8日、ワシントンにあるマザー・テレサが設立したエイズホスピスを訪れました。入居者は無料、寄付とボランティアの力で運営されていました。一体どうやったらそんなことができるのか、興味があり案内役のシスター・ビンセントさんに尋ねました。
すると彼女がいうには、「私たちが一度も欲しいと言わなくても、世界中から寄付やボランティアが集まります」と。「窓が壊れたら、誰も直してとはいわないのに、直しましょうかという人が現れます」と。それを聞いた時、不思議と「あっ、そうなんや!」と、心の霧が晴れたような気持ちになりました。
「自分は日本から来た医師で、実はやりたいことができていない」と言うと、彼女は満面の笑顔でこう言いました。「目の前のことをやりなさい。そうすれば、必要なものは現れる」と。
──そうだったんですね。
髙橋:
9月10日にワシントンからニューヨークに移り、9月11日、まさに同時多発テロが起きた当日、一行は朝からバスに乗り、テロリストが操縦する飛行機が突っ込んだ世界貿易センタービル近くにある、その日の研修先の病院に向かっていました。
やがてあたりの様子がおかしいことに気づいて。緊急車両がたくさん出てきて、私たちの進行方向に向かって行く。そちらに顔を向けると、大きなビルが真っ赤に燃えていました。
しかしまさか、あんなことが起きていようとは知る由もありませんから、バスはぐんぐん現場の方へ向かい、世界貿易センタービルからたった3000メートルのところにある研修先の病院の前で降ろされてしまったんです。
──ええ…!
髙橋:
そこは周辺のビル群から出てきた人で埋め尽くされていました。何が起きたか全くわからないまま、燃えていたビルが突然崩れ落ち、悲鳴が鳴り響きました。まさにその瞬間、私たちはそこにいたんです。
現場から徒歩で逃げ、ホテルに戻ってニュースを見た時に、初めて何が起きたかを知りました。ビルに飛行機が突っ込み、多くの人が亡くなったと。
(髙橋先生の人生の転機となった、9.11同時多発テロ事件。「前日にニューヨーク・マンハッタン島に入った私たちは、当日研修先のセントビンセント・メディカルセンターに向かっていました。前方ではビルが炎上していました。この写真は、メディカルセンター前から撮影した世界貿易センタービルです。この後ビルは崩れ、私たちも避難しました」)
髙橋:
その日から飛行機も一切空を飛ばなくなり、帰国はもちろん、ニューヨークのマンハッタン島からも出られない足止め状態になりました。ツアーはもちろん中止です。
ホテル待機が続いたある日、ホスピス研修ツアーのコンダクターの部屋で参加者が集まって議論していた際に、突然「すべてのお客様は今すぐ避難してください」という館内放送が流れました。エレベーターは緊急停止して閉じ込められる可能性があるので、28階から地上階まで、皆で非常階段で降りました。
その時、私の前に看護師の方がいて、さらにその前に年配の方がいたのですが、年配の方はそんなに早く降りられません。看護師の方がつい「もうちょっと早く降りられないかしら」と言ってしまいました。「もしこのビルに爆弾が突っ込んだら、一人二人抜いたところで結局一緒でしょう」と後ろから声をかけて降りたんですが、この時初めて、「ひょっとしたら自分は死ぬかもしれない」と感じたのです。まさに死を身近に感じた瞬間でした。
そしてその時、思ったんです。「もし無事に日本に帰れたなら、自分が思ったことを、思い描いた通りのことをやろう」と。
──そうだったんですね。
髙橋:
しばらくして、無事帰国の途につきました。離陸した空の上から、かつてない経験をしたマンハッタン島を見下ろすと、グラウンド・ゼロ(飛行機が突っ込んだ世界貿易センタービル跡地)から煙が天まで立ち上っているのが見えました。
──髙橋先生の運命を変えた出来事だったんですね。
髙橋:
「目の前のことをやりなさい」と笑顔で話したシスター・ビンセント。そしてその3日後の同時多発テロ事件。この出来事が私の背中を押しました。
帰国後、「勤務医としてではなく、自分の思い描くかたちで医療や支援が必要な人に寄り添いたい」と、2週間で開業を決意しました。
(「『目の前のことをやりなさい、そうすれば必要なものは現れます』。マザー・テレサの弟子であるシスター・ビンセントの言葉が私の背中を押しました。どうしてもシスターの笑顔を忘れたくなかったので、『日本の若者たちに見せたい』と頼んで写真を撮らせていただきました」)
(開業当時の診察室の様子。「手にしているのは、ドラえもん電報です。何もない中での開業でしたが、たくさんの人に応援していただきました」)
髙橋:
突然のことで家族にはすごく迷惑をかけたし、銀行も全くお金を貸してくれませんでした(笑)。でも、シスター・ビンセントが言ってくださった「必要なものは現れる」という言葉通りになりました。いくつかの医療機関さんから使わなくなった古いベッドを譲り受けたりと、本当にたくさんの支援を受けました。
(近くの公園までお出かけ。スタッフと一緒にすべり台を楽しむ)
──導かれるように道が開かれ、その後うりずんも開所されることになるのですね。今、課題に感じていらっしゃることはありますか。
髙橋:
うりずんをスタートしてから、何度か国の制度の改正もあり、医療的ケア児に対する体制は少しずつ整いつつあります。しかし一方で、ただ医療的ケアだけをしていればいいわけではなく、その先の当たり前の暮らしを目指す必要があります。逆にこれからが勝負だと思っています。
地域による支援格差も課題の一つですが、どこで暮らしていても、地域のなかに施設がいくつかあって、本人やご家族が自分たちの希望に合う施設や支援を選べるようになっていけばと思いますね。
現場として感じていることは、一時預かりだけでなくお泊まり支援も今後必要だということです。親御さんが出産や冠婚葬祭で家を開ける際、日中だけの預かりでは足りませんが、まだお泊まり支援のしくみが作れていません。
チャレンジされている施設もありますが、それなりのご苦労もあると伺っています。うりずんとしても来年度以降、お試し的にお泊まり支援を実施したいと考えています。
(毎年6月に開催しているイベント「Dreamnight at the Zoo」。「宇都宮動物園と共催で行っているこのイベントでは、うりずんのご利用者様とそのご家族を無料で動物園に招待しています。『初めてきょうだいも連れて、一緒に動物園に来ました』と喜ぶお母さんもおられます」)
(夏の定番、うりずんのテラスでプールを楽しむ。「『医療的ケアが必要であってもプールを楽しみたい!』、子どもたちはきっとみんなそう思っています。水の冷たさ、音、光…いろんことを感じられるプール。時には水鉄砲も登場します。楽しいことがたくさん経験できるといいですね」)
──ご活動をされていてよかったと感じる時はどんな時ですか。
髙橋:
医療的ケアが必要なご本人だけでなく、そのきょうだいやお父さんお母さん、家族の皆さんが当たり前の普通を同じようにできた時、緊張が解けるというか、まるで雪が溶けるようにふわっといいなあと思ってもらえる。その瞬間が嬉しいです。
預かっているからすべてを知っているわけではなくて、私たちが知っているのは、その子の、そのご家族の、本当に一部です。共に暮らしていくご家族のハレの日ケの日ではないですが、お祝いの日だけでなく日常の日々を楽しく紡いでいくこと、そのためのお手伝いができたらと思っています。
(「いろんな状態や病気があっても、子どもは子どもらしく過ごしてほしい。その瞬間や経験を、少しでも増やして行きたい。それが私たちの願いです」)
髙橋:
「おはよう」と起きてから、朝ご飯を注入してお着替えをして、リフトで移動して車椅子でお出かけし、お昼ご飯を注入して、お友達に会い、お風呂に入って夜ご飯の注入し、「おやすみなさい」と眠りにつくという1日の流れがあるとすると、医療的ケア児や障がいのあるお子さんは、そうではない子に比べて3倍、5倍、10倍の人手と手間がかかります。
その時に、ご家族ほどはわからなくても、その次ぐらいに本人のことがわかるよっていうスタッフが街の中に一人でも多くいたら、もしお父さんお母さんがいなくなった後も、その子どもはずっと地域で暮らしていくことができるかも知れません。先ほどお泊まり支援の話もしましたが、24時間見守りができる場はこの先のそういった選択肢にもつながっていくし、その提供までできるようになるのが、私たちの目指すところです。
いろんな制度ができて救われる子がいる一方で、日々その子たちが共に暮らす家族、親やきょうだいもまるごと支援できるようなしくみがないと、家族全体としての幸せには行きつきません。親御さんが泣きながら介護するのも、お子さんだけが幸せなのも違います。「みんなが幸せ」であることが大切なのではないでしょうか。
(2016年1月、地域に密着して人々の健康を支える医師に贈られる、第4回「日本医師会 赤ひげ大賞」を受賞した髙橋先生。「表彰式の写真です。右端は熊本の緒方健一先生で、同じく医療的ケア児の在宅医療に関連する活動が認められました」)
(「アメリカの寄付文化をアイデアに、うりずんの玄関ホールゆいま~るに感謝の木をつくりました。2021年12月現在、ずいぶん葉っぱが茂り、支援の輪が広がっています」)
──最後に、チャリティーの使途を教えてください。
髙橋:
お泊まり支援の実施のために活用させていただきたいと考えています。
先ほどもお伝えしたように、身近なところでの医療的ケア児のお泊まり支援はまだしくみが整っておらず、制度からも外れています。今回のチャリティーで、ご家族に経済的な負担なくお子さんをお泊まりでお預かりしたいです。ぜひチャリティーに協力いただけたら嬉しいです。
──貴重なお話をありがとうございました!
(2021年12月、うりずんオンラインクリスマス会にてスタッフの皆さんと。「新型コロナウイルスの影響で2020年は中止、2021年はオンライン配信での開催となりました。オンラインであってもご家族に楽しんでもらいたいとスタッフが考え、全力で仮装して全力で撮影しました。そしてなんと最後には、その恰好のまま参加されたご利用者全員のお宅にクリスマスプレゼントを宅配するというサプライズも実施しました!仕事も芸も全力投球です」)
インタビューを終えて〜山本の編集後記〜
死を意識した瞬間に、輝きはじめる生がある。髙橋先生のお話をお伺いして改めてそう感じました。
生きているということは、いつか死ぬということでもあります。どんな「生」を歩んでいくのか、あるいはそこでどんなふうに周囲と関わっていくのかは、それができる環境にある、私たち一人ひとりにかかっています。
「『みんな幸せ』が大切」と笑顔で話してくださった髙橋先生の笑顔が印象的でした。
与えられた命、私だけの命。だからこそきっと今日、私にもできることがある…!
大きな木の周りに、いろんな生き物が集まっています。木の豊かな恵みを受けて、皆穏やかに、楽しくそれぞれの生を生きています。
「どんな人も自分らしく生きられるように」。大きな木はうりずんさんの活動そのものであると同時に、うりずんの庭に植っているケヤキの木の象徴としても描きました。
“It is a good day to be happy”、「今日は、ハッピーになるのに良い日」というメッセージには、どんな人も、どんな障がいや壁があっても分け隔てなく、当たり前の幸せな日々を過ごすことができるんだよという思いを込めました。