CHARITY FOR

「最後まで諦めず、世界平和をかなえたい」。カンボジアの農村部から始める国際支援〜NPO法人はちどりプロジェクト

燃える森の中で、われ先にと逃げていく生き物たち。
でも「クリキンディ」という名のハチドリだけは森に残り、小さなくちばしで水をすくっては運び、雫を一滴一滴、燃える炎の上に垂らしていきます。

「そんなことをして一体何になるんだ」とあざ笑う動物たちに、クリキンディはこう答えます。

「私は、私にできることをしているだけ」 。

南米の先住民族に伝わる物語「ハチドリのひとしずく」。JAMMINのブランドコンセプトのストーリーでもあります。

今週、私たちが一週間限定でコラボするのは、NPO法人「はちどりプロジェクト」。ハチドリの物語をコンセプトに、内戦からの復興を続けるカンボジアで子どもたちの教育支援を行うNPO法人です。

「世界は変えられない、と人は思うかもしれません。でも、本気で変えようと思ったら、世界は変わる。そのことを知っているからこそ、小さなことでも、自分ができることで夢をかなえる人になりたい」。

そう話すのは、団体代表の宮手恵(みやて・めぐみ)さん(47)。「90歳まで、職業国際支援と言っていたい」という宮手さんに、活動についてお話を聞きました。

(お話をお伺いした宮手さん)

今週のチャリティー

NPO法人はちどりプロジェクト

カンボジアの子どもたちが不自由なく教育を受けられるように、教育支援だけでなく、大人への就労支援も行うNPO法人。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO

学校建設がきっかけで
村での就労支援をスタート

(2011年、「はちどりスクール」建設にあたって、プレイキション村の建設予定地の校庭に井戸を掘るボランティアメンバー)

──今日はよろしくお願いします。まずは、貴団体のご活動について教えてください。

宮手:
カンボジアの有名な遺跡、アンコールワットのある「シェムリアップ」という都市から北西に70キロのところにある「プレイキション村」という農村で、子どもの教育支援につなげるために、就労支援をしている団体です。プレイキション村は、2011年に学校建設したご縁で、そこから携わっています。

──現在、就労支援をされているのはなぜですか?

宮手:
2012年3月に「はちどりスクール」を建設しました。

カンボジアは1970〜1993年の内戦によって、学校や病院が破壊され、知識人が多量虐殺されたという歴史があります。

学校を建設し「この村にもやっと学校ができ、子どもたちが学べる場所ができた」と思っていた矢先、村の大人たちが近隣の国へ出稼ぎに出てしまうという事実を知りました。その際に子どもも一緒に連れていってしまうんです。そうすると、学校へ通うことができなくなってしまう。子どもたちが継続して学校に通える環境を作るために、2013年に団体を法人化し、就労支援を開始しました。

──就労支援をしながら、支援の目的としては子どもたちの教育ということですね。

宮手:
そうですね。というのは、教育さえ受けることができて、読み書きができて知識があれば、子どもたちは自分の力で未来を築いていくことができるからです。教育を受けた子どもが、村を豊かにしていくために考えて行動していくこともできます。カンボジアはたくさんの国やNPOから支援を受けている国ですが、ゆくゆくはこの村が自立し、支援の必要がなくなるように、少しずつですが種を蒔いていきたいと思っています。

(工房にて、見学に訪れたお客さんに紙すきのやり方を教える工房の従業員)

出稼ぎのために村を出る親たち

(プレイキション村の小学校の下校風景)

──活動拠点であるプレイキション村で、多くの人が出稼ぎに出てしまうのはなぜですか?

宮手:
村に産業がなく、出稼ぎに行かなければ生活をしていくことが難しいからです。
カンボジアでは、多くの人が米の生産で生計を立てています。地域によっては二毛作が可能なところもあるのですが、多くの地域では雨季(5月〜10月)にしか米を収穫することができません。そうすると、自分たちの米の収穫は家のおばあちゃんや親戚、日雇いの人に任せて、もっと収入の良い、工場やゴム農園のプランテーションなどへ出稼ぎに出てしまうのです。

──そうなんですね。

宮手:
その時に、奥さんと子どもも一緒に村を出てしまうと、子どもは教育を受けられないまま大人になってしまいます。村に産業があって、親たちが安定した収入さえ得ることができれば、出稼ぎのために村を出る必要はありません。この村の子どもたちが安心して教育を受けられる環境をつくりたい。そう思って、現在は就労支援に重きを置いています。

(小学校1年生の元気な子どもたち)

──プレイキション村はどんな村ですか?

宮手:
125世帯、人口600人弱の村ですが、そのうち200人ほどは出稼ぎに出ていていません。私たちが建設した「はちどりスクール」に通っている小学校1年〜6年生が100人弱、未就学児が6〜70人います。

──子どもが多いんですね。

宮手:
そうですね。10人に1人ぐらい、家族と一緒に出稼ぎに行ってしまう子どもがいて、後の子どもたちも、出稼ぎに行ってしまった親御さんの代わりにおじいちゃんおばあちゃんが子育てをしている世帯が多いです。水道・下水は整っておらず、井戸水に頼った生活をしています。電気に関しては昨年の12月にやっと通りましたが、利用料金が高く、電気をこうこうとつけている家というのは少ないですね。

──インフラが整備されていないんですね。

宮手:
首都・シェムリアップはインフラも整った大都会ですが、車で1時間半もいくと、こういう村がたくさんあります。

──暮らしている人たちはどんな雰囲気ですか。

宮手:
温暖な場所なので、陽気で朗らか、幸せそうな方が多いです。極端な話ですが、お米が収穫できるのでどんなに貧しくても食べるのには困らないところがあるし、暖かいので衣服も必要ありません。そういう意味では「なんとかなるさ」と楽観的にとらえている方が多いと思いますね。

(井戸で合成洗剤を使って洗濯をする村の女性。インフラが整っておらず、生活汚水はすべてそのまま自然へと流れ出る)

カンボジアが抱える悲しい過去と、
これからの課題

(プレイキション村には井戸がない家も多く、一番近い家の井戸水から汲んで運んで使用する)

宮手:
ただ一方で、村の貧困は深刻です。
内戦の際には子どもに銃を持たせて親を撃たせるような、そんな壮絶な時代を経ていますが、今、子どもを持つ親のほとんどが教育を受けずに育ち、読み書きができません。「子どもを学校に通わせる」という教育の必要性も定着していないし、読み書き計算ができないので、安定した収入を得る手立てがありません。多くの人たちが出稼ぎで収入を得ています。

──稼ぐ手段がなく、出稼ぎのため村を離れること、教育が定着していないこと…。何かと不安定な要素が揃っているのですね。

そうですね。もし村で産業が定着すれば、それが教育の安定にもつながると思っています。

(新しい命の誕生。生後三日目の赤ちゃんと、笑顔で見守る二十歳の母親)

村に産業を生み出すためのプロジェクト

(紙すきの様子。「一度も学校に通ったことがない彼女だが、紙すきを覚え、自信を持って働くことができるようになりました」(宮手さん))

──今はどのような産業に取り組んでいらっしゃるのですか?

宮手:
「コー」という実から綿をとり、井戸水ですいた紙すきを2014年から行ってきました。10mほどの高さの木に実が成るのですが、まずはごみを取り除いて綿を煮、石灰を混ぜた後に強い繊維を細かくカットして砕いてから紙にしています。日本の紙すきの場合は叩いて繊維を柔らかくするのですが、綿は繊維が強く、叩くだけでは足りないんですね。

すいた紙は、以前はシェムリアップのナイトマーケットや日本の雑貨店に置かせてもらったり、あとはインターネットでも販売しています。しかしいろんな課題があって、紙すきの売り上げだけで従業員の給料を支払うことは難しく、他のグッズ販売も行っています。

(学校教育を受けていないため、働くスタッフたちは数字を知らず、紙すきによって完成した紙の枚数を記録できない。数字を学び、書く練習をしているところ)

──どんな課題があるのですか?

宮手:
紙を乾燥させる過程がうまくいかず、日本での技術や専門家の方からのアドバイスもいただいたりしながら試行錯誤を繰り返しているのですがなかなかクオリティーを担保するのが難しい部分があって、紙すきと並行して、新たなプロジェクトをスタートさせたところです。

──どんなプロジェクトですか?

宮手:
村で収穫した米から油を搾取し、それで石鹸をつくるプロジェクトです。これは就労支援の他にもう一つ、環境教育という側面も備えています。

(「微力だけど無力じゃない」。紙すき工房の壁に書かれたはちどりプロジェクトの思い)

──どういうことでしょうか?

宮手:
水道も、下水もないこの村で、最近村人たちが合成洗剤を使用するようになってきています。下水処理のシステムがないわけなので、村人が使った汚水はそのまま土に吸収され、彼らが口にする米や野菜、井戸水も汚染してしまいます。

ケミカルな合成洗剤ではなく、害のないかたちで自然に還る天然由来の石鹸があれば、彼らの健康な生活をも守ることができると考えています。まだまだ準備段階ですが、生産したものだけで従業員の方たちにお給料を支払えるように、少しずつかたちにしていきたいと思っています。
ただ、やはり思い通りにならないことはいろいろとあって…。昨日今日は米から油を絞る機械が動かず、皆で運んで修理に出したのは良いのですが、思ったように修理されない…という感じですね。今回の滞在中にどうがんばっても機械が動かないようであれば、日本に帰ってから別の方法で油をとる方法をいろいろと調べたり情報収集したりして、別の方法を試すことになりそうです。

──一筋縄ではいかないんですね。

(今回、インタビューはカンボジアに滞在中の宮手さんとテレビ会議で行わせてもらいました。宮手さんが日本に帰国する前、「はちどりスクール」第1期卒業生が「はちどりプロジェクトで働きたい」と申し出てきたのだそう。「15歳、名前はティオ。8月末に中学を卒業しましたが、家が貧しく、高校に通うことは難しいとのこと。工房で働きなから4人の姉弟の面倒を見続けることになるようです。彼女がここで働きがいや生き方を見つけて欲しいと願っています」(宮手さん))

きっかけをくれたのは、一冊の本と
エベレストを目指し続けた日本人登山家

(2014年2月、宮手さんの地元・北海道室蘭市に登山家・栗城史多さんを招いた講演会での1枚。前列左から7人目、黒い服を着ているのが栗城さん。2017年7月にも室蘭で講演会を開催した)

──困難がたくさんある中で、なぜ、支援を続けられるのでしょうか?

宮手:
やっぱり、子どもたちの存在ですね。
出稼ぎのせいでお父さんお母さんと一緒に暮らせない子ども、学校へ通えない子どもを減らしたいという思いです。はやく利益を出して、従業員を増やして、もっとたくさんの村人に、安定したお給料を渡せるようになりたいと思っていますね。そして、日本から応援してくれている方たちがたくさんいるので。皆さんの期待に応えたいという思いも強くあります。

──宮手さんがこの活動をはじめられたそもそものきっかけは何ですか?

宮手:
30歳の時に、「世界がもし、100人の村だったら」という本を手にしたことがきっかけです。日本で生まれ育った自分がいかに恵まれているかということ、そして世界平和のための自分に何ができるのかということを考えるようになりました。
何かしたいという思いを胸に抱きつつ、その一歩を踏み出すことができないまま何年かが過ぎました。私は趣味で山に登るのですが、登山家の栗城史多(くりき・のぶかず)さんの大ファンで、37歳になった2009年に、初めて彼の講演会を主催させてもらったんです。

──2018年にエベレスト登頂を目指し、35歳で亡くなられた方ですね。

宮手:
そうです。登山のための資金を集めるために各地で講演をされていたのですが北海道では講演がなく、北海道でも講演を開きたい、会ってお話を聞きたい、そして彼のエベレスト登頂の夢を応援したいと講演を主催しました。

当時は講演会のこの字もしたことがなかったし、ただただ「やりたい」という原動力に突き動かされて、準備のためにあちこち奔走しました。いろんな場所へ出向いたり、チラシを貼ってもらうために地元の商店さんを一軒ずつ回ったり…。リスクを背負ってイベントを主催するのは決して楽ではありませんでしたが、会場の定員であった360席を満席にすることができたんです。この成功体験が大きなターニングポイントになりました。

(2009年11月、札幌市で初開催した講演では、来場したお客さんに依頼し、参加者全員で北海道をかたどったバネルで栗城さんを歓迎)

栗城さんに初めてお会いした時、「夢を1日10回口にする、つまり口に十と書いて【叶う】んだよ」と言ってくださいました。私は北海道室蘭市の出身なのですが、栗城さんも同じ北海道の、今金町という町の出身で、そこから地元の大学に進学して登山を始め、世界に挑戦する姿が、自分自身と重なりました。

講演を成功させた経験が、出会いで人生は大きく変わるんだということ。そして明確な意志や夢を持てば、それはかなえることができるんだということを確信させてくれました。「私も栗城さんのように夢を行動に移し、かなえる人になろう」。強くそう思ったんです。そしてカンボジアの内戦を知り、巡り合ったこの村で学校建設をスタートし、そこから今の活動へと続いています。

──そうだったんですね。

(栗城さんの講演会を成功させるため、地元のメディア等にも情報掲載を依頼。2017年6月、地元の新聞に取り上げられた際の記事)

栗城さんの死をきっかけに、退職を決意。
「職業 国際支援」として生きる

(「はちどりスクール」の5年生に英語を教える宮手さん)

宮手:
2018年、栗城さんが、何度も何度も挑戦し続けたエベレストで亡くなりました。心折れて、一晩中泣きました。

でもその時に、本当にいろんな人たちから「大丈夫?」「気を落とさないで」と連絡をもらったんです。講演会を通じて出会った人たち、そしてまたカンボジアでの支援で出会った人たち、こんなにたくさんの人に支えられていたんだ、自分が歩んできた道は確かにあるんだと気づきました。

当時、添乗員として働きながら団体の活動を掛け持ちしていました。団体の運営資金から自分の給料を出すぐらいだったら、現地でたくさんの人が雇える。自分は自分で生きていくお金を稼がないといけない、と思っていたからです。
でも、一晩泣いた後に、決めたんです。私は、これで生きていく。「職業添乗員」ではなく「職業国際支援」として、生きていく覚悟を決めました。この活動だけに注力するようになって、ちょうど1年になります。覚悟を決めたからには、利益を出して、この村が自立できるように進めていかなければならない。そう思っています。

(スタッフと話す宮手さん。「信頼関係を築くには、会話を積み重ねることが大切です」(宮手さん))

「『傍観者』を減らせたら、
世界は本当に変わる」

(趣味で現在でも帰国すると山に登るという宮手さん。北アルプス登頂の1枚)

──栗城さんの姿勢が、何かご自身と重なる部分があったのでしょうか。

宮手:
エベレストに何度も挑戦し続け、挑戦の中で命を引き取った栗城さん。批判されても自分の信じた道を突き進む姿に、諦めないことの大切さを学びました。

戦争、レイプ、人身売買…世界でいろんなことが起きています。世界平和に向けて何ができるのか。そこに正解はありません。カンボジアにはたくさんの支援団体がありますが、100団体あれば100通りの支援があります。
誰もが積極的に行動する必要はないんです。ある改善すべき状況があった時に、文句を言う人、解決に向けて頑張る人、応援する人、傍観する人が出てきます。この「傍観する人」を減らすことができたら、私は本当に世界が変わると信じています。

団体名にもなっている「ハチドリのひとしずく」の物語もまさにそうで、みんなそれぞれが、ただ自分にできることをしていけば良いと思うんです。「何もできない」「何もない」なんてことはありません。できることは本当にたくさんあるし、私が経験したように、そこから世界平和への一歩が大きく広がっていくはずです。

(カンボジアを代表する世界遺産・アンコールワット。宮手さんが世界平和への希望を感じるモチーフだという)

チャリティーは、村に産業を根付かせるプロジェクトのための資金になります!

(スタートして間もない石けんプロジェクト。石けんをつくる宮手さん)

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

宮手:
現在プレイキション村で進めている就労支援プロジェクトのための資金として使わせていただきたいと思っています。ぜひ、はちどりプロジェクトの活動をチャリティーTシャツで応援いただけたらうれしいです。

──貴重なお話、ありがとうございました!

(2019年5月、東京都内で開催された「カンボジアフェス」に出展。参加した皆さんと)

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

宮手さんのお話を聞きながら、「世界を変える」ことはすなわち、「自分が変わる」ことなのかもしれない、と改めて感じました。「そんなの無理」「できっこない」という意識から、自分の住む世界、今日生きる1日この一瞬一瞬を、明るく輝く意識、空間にシフトすることができたら、世界はポジティブに、描いた夢の通りに動いていくと思うのです。

同じ「ハチドリのひとしずく」をブランドストーリーとしているJAMMINで働きながらいつも思うこと、そして今回、宮手さんのお話をお伺いして改めて思ったこと。
ハチドリのクリキンディが言う「私にできること」、くちばしで運んだ小さな一滴一滴は、何も大げさなことでなく、この一瞬一瞬を自分らしくポジティブに生きる、自分のできることで世界をちょっと輝かせる、きっとそういうことなのではないでしょうか。

・NPO法人はちどりプロジェクト ホームページはこちら

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大地にくちばしで運んだ一滴の水を垂らすハチドリの姿を描きました。

一人ひとりの「ひとしずく」がやがて乾いた大地を潤し、豊かな世界を創り出すことを表現しています。

あなたの小さな行動によって、”And the world live as one”、「そして、世界はひとつになる」というメッセージを添えました。

Design by DLOP

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