2024年12月、シリアのアサド政権が崩壊したニュースは、日本でも大きく報道されました。2011年に内戦が勃発し、40万人以上の死者、690万人以上の国内避難民、550万人以上が国外へ難民として避難したといわれています。
さらに2023年2月に起きたトルコ・シリア地震では、7000人以上もの人が犠牲になりました。
長引く戦闘と地震の影響により、多くの市民が苦しい生活を余儀なくされてきましたが、アサド政権の崩壊により、不安定な状態は続いているものの、人々の間に少しずつ、未来への期待が生まれてきているといいます。
今週、JAMMINがコラボするのはNPO法人「Piece of Syria(ピースオブシリア)」。シリアの平和な未来を願い、シリアの子どもたちに教育を届けてきました。現在、シリアの子どもたちの3人に2人が学校に通えていないという状況の中、心に傷を負った子どもたちのメンタルケアを行いながら、未来への希望となる教育を届けるために活動しています。
「『多様性を持っている』ことこそ、シリアの人たちの誇り。僕らはそこに光を当てながら、シリアの人たちが自らの力で、平和に力を注いでいけるようなサポートをしたい」。
そう話すのは、Piece of Syria代表理事の中野貴行(なかの・たかゆき)さん(43)。
シリアの現状について、またご活動について、お話を聞きました。
お話をお伺いした中野さん。現地パートナーのウサマさんと
NPO法人Piece of Syria
シリア復興の主体である子どもたちに基礎教育を届け、自らの力で未来の平和をつくるための支援をしています。
団体名の「Piece of Syria」には、パズルのピースのように、一人ひとりが力を合わせることで、平和を実現できるという思いが込められています。
INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2025/02/03
2025年1月、シリア北西部の学校の様子。戦争・地震で多くの校舎が壊れたまま
──今日はよろしくお願いします。
昨年(2024年)12月にアサド政権が崩壊しましたが、現在のシリアの様子について教えてください。
中野:
日本でも大きく報道されたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、2024年12月に、1971年から親子二代にわたって続いたアサド大統領による独裁政権が崩壊しました。
ざっくりとした説明になりますが、シリアは2011年に「アラブの春」が起こり、様々な勢力が入り乱れる内戦が続いていました。2018年頃から、ロシア・イラン・レバノンのヒズボラのサポートを受けるアサド政権、トルコ軍の支援を受ける反体制派、さらに米軍の支援を受けるクルド軍という3つの勢力による分断が膠着していました。
しかし、アサド政権の後ろ盾だったロシアはウクライナ情勢にかかりきりになり、イラン・ヒズボラはイスラエルとの戦争に弱体化していく中で反体制派が一気に攻め込み、わずか12日間で反体制派勢力が首都のダマスカスを制圧し、アサド政権が崩壊しました。
2025年1月、アサド政権崩壊後のシリア北部の街アレッポの様子
──現在はどんな状況なんでしょうか。
中野:
特にアサド政権崩壊前後は、政権が倒れたことで大きな混乱や争いが起きるのではないかと、戸惑いや心配の声が非常に大きかったように思います。
ですが幸いなことに、状況は比較的落ち着いているようで、今は喜びの声が圧倒的ですね。
ただ、治安が不安定だという声や、宗派による対立や差別があるという声があったり、一部の地域ではまだ戦闘が続いています。そのため、シリア国外に避難した友人からは「まだどうなるかは分からないから様子を見ているんだ」と、まだシリアに帰ることを躊躇しています。
──そうなんですね。
中野:
はい。ですがアサド政権が倒れ、「これで戦争が終わる。きっと未来はよくなる」と、人々の間に期待感が生まれているのを感じます。
Piece of Syriaがシリア北西部で実施している心のケアのアクティビティに参加する子どもたち
「2022年の地震では30万人が家を失い、夜には氷点下にもなるシリアの冬の寒さの中、路上で寝るしかない状態となりました」
中野:
2023年、シリア・トルコ大地震が起きました。被害は震源地であるトルコの方が大きかったのですが、戦争の中で起きた地震という意味では、シリアは本当に厳しい状況でした。
なぜなら、戦争による分断・対立で、国際NGOのスタッフがシリア国内で活動ができなかったり、物資の行き来が制限されてしまい、地震直後に国内外からの支援があまり入れなかったのです。そのため、地域内にある物資や重機を活用する必要がありましたが、瓦礫を撤去する重機の数が限られており、救援活動が震災直後に始められなかった地域もありました。
また、一時的には国際的な注目もあって支援が集中したものの、地震から半年ほど経つと、戦争と地震の両方の復興が必要にも関わらず、世界からの支援は地震前と同じくらいになってしまいました。
地震直後のシリアの街の様子。「瓦礫から人を助けるための重機がこの被災地に届いたのも、地震から数日が経ってからでした。この遅れも、戦争が理由だといいます」
中野:
そんな中で僕たちは、一貫して教育の支援をずっと続けることを、大切にしてきました。
シリアでは、3人に1人しか学校に行けてない、と言われています。戦争前のシリアは、大学まで無料で、小学校の就学率が99.6%でした。だから、「教育が重要なことは分かっている。けれど、教育を子どもたちが受けることができないという状況が辛いんだ」と話していたからです。
そして、不安定な状況の中で、子どもたちが安全な場所で学び、希望を持てることが、子どもだけでなく、親にとっても安心と支えにつながります。
そして何よりも、教育が土台となって、やがて大人になっていく子どもたちが、シリアの平和な未来を担ってくれると信じてきたからです。
──なるほど。
中野:
地震直後は、小中学校の校舎や設備の支援もしています。でも、団体の設立以来、私たちが力を入れているのは、幼稚園なんです。
私たちはシリア北西部で約300人の生徒が通うSAKURA幼稚園を運営しています。
地震の被害が大きかったシリア北西部で、3校の校舎修復を実施した
──どうして小学校ではなく幼稚園なんですか?
中野:
2024年のデータで、シリア北西部の小学校の退学率が55%もあったんです。小学校に行っても、学校に通い続けられないんですね。
ですが、幼稚園に通った子どもたちは、退学せずに学校に通い続ける可能性が高まる、という報告があり、実際、私たちが運営する幼稚園に通った子どもの退学率は約10%程度です。
高等教育につなげていくためにも、まずは小学校に通い続けることが重要です。その土台を作る役割が、幼稚園にあるんです。
──どうして小学校の退学率が高いんですか?
中野:
一つは教育の質です。まず、幼稚園のあるシリア北西部は「反体制派エリア」でしたので、公共のサービスが届かず、教育機関は国際支援に頼っている状態でした。しかし、多くの国際支援が「建物(学校の校舎)」にしか使えず、先生たちの給与や教師トレーニングが十分ではないケースがありました。
そうすると、優秀な先生が国外に逃れてしまったり、無給のボランティアとして働くことに限界を感じて、先生以外の仕事に就いてしまったりします。結果、教えるのがうまくなかったり、教室の運営がわからなかったりして、生徒のレベルに合った指導ができず、授業についていけないから、学校に行かなくなる、ということが起こっていました。
──他にも理由があるんですか?
中野:
はい。もう一つは治安です。
戦争が続き、空爆や誘拐、不発弾が地雷として道に埋まっていたりすることもあり、親が子どもだけで外で遊ばせることができません。そのため、子どもが家から出ることなく過ごしてしまいます。そして、6歳になって急に小学校に行って、家族から離れて、同年代の子どもたちと学ぶ、となるとその環境の変化についていけず、学校に行かなくなってしまうということが起こっています。
2024年2月、消防署で、不発弾や地雷について学ぶ幼稚園の生徒たち
「シリアでは今も子どもたちのトラウマが課題です。学校に円滑に戻るための心のケアのアクティビティを巡回型で実施しています」
──幼稚園に行くことで、どうして小学校を続けやすくなるんでしょうか?
中野:
幼稚園の役割は「基礎教育」「友達とのコミュニケーション」「心のケア」があります。
教育の質の低下が問題となる中で、小学校に入る前に、幼稚園で基礎教育を学ぶことで、授業についていける準備をすることが重要です。そして、同世代の子どもたちと一緒に過ごす経験ができることも大切なんです。
ある日、「幼稚園で、何が楽しい?」って、幼稚園の生徒に尋ねたことがあるのですが「友達と遊ぶのが楽しい」って言ってて、微笑ましく聞いていたんですね。そしたら、シリア人のスタッフが「これはとても大きな成果なの」って僕に教えてくれたんです。
「幼稚園では、先生たちが楽しみながら勉強が好きになる工夫をして、笑顔があふれる教室を作ってくれています」
──幼稚園で友達と遊ぶのが楽しいって、普通な気がしますが…
中野:
僕もそう思いました。ですが、治安の問題で友達と遊ぶ習慣がなかった子どもたちは、家から離れて幼稚園に行くことが最初は辛くって「早く帰りたい」って泣いちゃうんだそうです。
ですが、先生たちが一生懸命、幼稚園に慣れていけるように楽しく授業をしたり、アクティビティを取り入れたりしながら、数ヶ月経ったら「家に帰りたくない!」って言うくらいに幼稚園を楽しんでくれるようになったんです。
また、戦争や地震で、トラウマを抱えてしまった子どもたちも多くいます。学校が空爆されたことで、「学校=怖い」と感じる子どもたちもいます。特に地震以降、心のケアの重要性は大きく増しています。
そのため、安全で、安心できる場所で友達と遊びながら、読み書きや計算などの基礎的な学習も体験し、楽しみながら社会性を身につけることができる幼稚園という場所が重要なんです。私たちの幼稚園を卒園して小学校に入った子どもたちは、学校で優秀な成績を取るんだ、と評判になっています。
2023年、シリア人スタッフの日本研修を実施。「日本で学んだ探求や体験型学習を取り入れ、子どもたちが自然に触れる遠足や農業体験、職場見学や街の清掃などもしています」。写真は、オリーブオイル工場の見学
中野:
僕たちはトルコに避難したシリア難民の子どもたちのための補習校の運営もしています。
もともとは、トルコの学校のトルコ語の授業についていけない課題をサポートするために、トルコ語を教えていました。しかし、トルコに住むシリアの子どものうち、半数がトルコ生まれになり、トルコ語の方が日常で使うようになってきました。
そして今では、トルコに住む多くのシリアの子どもたちは、母国語のアラビア語の読み書きはできない状況になったんです。
補習校では、教師経験が豊かな先生たち6名がシリアの子どもたちにアラビア語を中心に授業を実施
中野:
トルコでずっと住み続けられる保証はありません。
戦争が始まった直後、トルコはシリアの人たちを温かく迎え入れていて、シリアと同じように学べる学校を認めたり、大学の編入なども簡単にできました。しかし、最近は難民へのヘイトが目立つようになり、いじめや迫害だけでなく、シリアへの強制退去も行われていたり、シリア人が仕事できる機会もこの1年間で大きく減っており、トルコの生活が非常に厳しい、と言われています。結果、トルコに住むシリア人は減少傾向にあります。
にも関わらず、トルコ語しか話せないとなると、自分の母国であるシリアに帰った時に、アラビア語がわからないために、シリアでの教育についていけなくなってしまうリスクが出てきます。
トルコの補習校でアラビア語を学ぶシリアの子ども
中野:
そこで、補習校での授業を、トルコ語からアラビア語を中心にするようにしました。加えて、母国シリアの歴史や文化を学び、自分の国に親しみや誇りを感じてもらえる授業も行っています。
アサド政権が崩壊したことで、「シリアに帰りたい」と考えるシリアの人たちが増えると考えられます。その点でも、アラビア語を学ぶ補習校の役割は非常に大きくなると考えられています。
──確かに。
中野:
これまでは200人のシリア人の生徒に1年かけて、アラビア語・文化・アクティビティなど様々な授業をしていましたが、アラビア語だけを半年間に集中することで、1年で200人×2回、400人の生徒を教えることも考えています。
今後はシリア国内で、アラビア語の補習校を運営することも考えています。予算次第ではありますが…。
トルコのシリア難民の家。「よく誤解されるのですが、シリア難民の95%は家賃を払って生活をしています。一見『普通』に見えますが、『シリアを出て以来、幸せを感じたことがない』と話すなど、パッと見えるものだけでは分からない苦悩があります」
「もし活動を始めていなければ、幼稚園がなく、子どもたちの未来が変わっていたかもしれない。そう思うと、現地の子どもたちの写真や動画から、たくさんの希望を感じます」
中野:
活動をやっていて思うことが、ただ「教育を届ける」だけではなく「どのような教育を届けるか」が、ものすごく大事だということです。
たとえば、極端な例ですが「イスラム国」というテロ組織が運営する学校の教科書では「人質が10人います。3人殺しました。残りは何人ですか」みたいな問題があったそうです。
戦争は対立を生み出します。「私たちだけが正しい。それ以外は間違ってる」という教育や、学校だけじゃなくても、大人たちの会話から子どもたちにそう伝えてしまいます。
首都ダマスカスにあるウマイヤドモスク。多神教のローマ神殿、キリスト教の教会が転用されている
中野:
「対立をつくる教育」ではなく、「多様性を認め合う教育」をどう作っていくか、ということが、平和な未来を作る上で重要な視点だと思います。戦争下の中で、本当に難しいことだと思いますが、私たちと共に働くシリア人スタッフたちの方から「平和を創るための教育をしたい」と私たちに提案してくれました。そんな彼らと事業を一緒に進めることができていることを、僕は誇りに感じています。
──中野さんのモチベーションを教えてください。
中野:
前回のコラボの際にもお話させていただきましたが、僕は2008年に2年間、青年海外協力隊員としてシリアに滞在しました。そこで「人のやさしさ」にたくさん触れたんです。
「一番仲良くしていた家族のおじいちゃん。僕の滞在中に病気で亡くなったんですが、お見舞いにも、お葬式にも、各地から人が集まって、こんなふうに見送られるような人生って本当に素敵だと感じました」
中野:
初めてシリアを訪れたのは2005年で、その時はアラビア語も全く話せなかったのですが、街を歩いていると、「椅子に座りいや」と声をかけられて、お茶を出してもらって、「どこから来たんや」って質問攻めに会いました(笑)。
言葉が通じなくても、「何かおもてなしをしたい」という気持ちを持っている人たちなんです。
中野さんが過ごしたシリアの村の団らん(2010年)。「家族との時間が多く、豊かさを感じました」
中野:
2010年に協力隊の任期を終えて帰国し、翌年の2011年に戦争が始まりました。
2015年から数ヶ月かけて、中東やヨーロッパ各地で難民となったシリアの人たちを訪ねました。そこで、たとえ故郷を離れ、先の見えない避難生活の中にあっても、彼らの「おもてなしの心」が変わらないことを目の当たりにしました。
難民としての生活は決して楽ではないはずなのに、「今日は泊まる?」「ご飯食べていく?」と、僕をおもてなししようとしてくれました。
あるレストランで一緒にご飯を食べたのですが、「このままだと奢られてしまう!」と思って、こっそり隠れてお金を支払ったことがあったんです。そしたら、「なんで払うんだ?君はゲストなんだぞ!」と怒られて、レジでいくら払ったかを確認して、お金を返してくれました。
2016年、ヨルダンの難民キャンプにて。「歩いていると声をかけられてコーヒーや昼ごはんをご馳走になりました」
中野:
「どうしてこういうことをしてくれるの?」と尋ねたら、「私たちにとって、難民であることは特別な状態で、当たり前の状態ではない。でも、あなたにおもてなしをすることで、私たちの当たり前を取り戻すことができるんだ」って言ったんですね。
その時に、シリアの人たちの、シリア人であることへの誇り、状況がどうであれ、変わらずシリア人として振る舞う気高さや力強さに触れて、本当にすごいと思いました。
僕が同じ立場だったら、同じことができるだろうか。とてもできない。僕は彼らに対して、尊敬しかないんです。
僕としては、「かわいそうだから助けてあげよう」っていう気持ちは1ミリもなくて「こんなに素晴らしい人たちが大変な状況にあるから、一緒に応援しませんか?」っていう気持ちで活動をしています。
──中野さんがシリアの方たちから感じた、その誇りや気高さ、相手を思いやる心が、また次の代へと引き継がれていくように。そんなご活動でもあるんですね。
イスタンブール在住で、シリアのアラブ・クルドの伝統音楽を残す活動をしているフセインさん。伝統音楽が失われないよう、未来に伝えている
戦争前、観光客ランキング世界で30位だったシリアには、見どころがたくさん。「写真は天空の城『クラック・デ・シュヴァリエ』。巨神兵が出てきそうな雰囲気があり、是非一度、訪れていただきたい場所です」
──先ほどシリアの「多様性」の話が出ましたが、改めて教えてもらえますか。
中野:
シリアにはイスラム教徒は多いのですが、キリスト教徒・ユダヤ教徒もいました。アラブ人は多いですが、クルド人、アルメニア人、コーカサス人も住んでいます。実は戦争前、シリアは世界で3番目に多くの難民を受け入れていた国だったのですが、その背景には、多様性を受け入れる土壌があったからではないか、とシリア人の友人が教えてくれました。
長い対立が続き、今でもそれがシリアの人たち皆の心に同じようにあるかはわかりません。ですが、だけど、多様性を認め合うシリアの人たちが持つ美しい文化の中に、平和の種があると思います。
そしてこれから、新しいシリアが築かれていくんだと思います。
スパイスとお肉の米料理「カブセ」。香ばしいナッツが良いアクセント
──中野さんが今、シリアに行けるとしたら、何がしたいですか。
中野:
僕が住んでいた村に帰りたいですね。
僕にとっては地元のような場所で、今も村の人たちとはしょっちゅう連絡を取り合っています。ゆくゆくこの村で活動できたら、すごく嬉しいです。できれば、支援活動ではなくて、観光の案内人のような活動がいいなぁって思ってます。
結婚式で出された羊の煮込み。「口で溶けるほどの柔らかく煮込まれてて絶品でした!」
中野:
もうひとつは、SAKURA幼稚園の生徒や先生たちに会って、ご支援いただいた皆さんに状況を報告できたらいいなと思います。
今回、政権が崩壊したことで少しずつシリアに入れる可能性も出てきました。再びシリアを訪れる日が楽しみです。
「シリアをまた行きたい国にする」のが、僕たちのゴール。
課題も問題も山積みですが、だけどそれ以上に、本当に美しい魅力、惹きつけられるものにあふれた国です。皆さんもぜひ、「大変な国」ではなく、ひとつの好奇心として、シリアという国の魅力に触れてもらえたら。そして、一緒にシリアの人たちを応援する仲間になってもらえたら嬉しいです。
シリアの寄木細工。「原点は3000〜4000年ほど前の古代メソポタミア、現在のシリアあたりで始まったそうです。日本にはシルクロードを通じて伝わってきたそうです」
──最後に、チャリティーの使途を教えてください。
中野:
チャリティーは、僕らが運営している幼稚園と補習校に通う子どもたちが、シリアの平和な未来へ向けて学び続けることができるよう、筆記用具を購入するための資金、また自国の文化を学ぶための課外授業の交通費として活用させていただく予定です。ぜひ応援いただけたら嬉しいです。
──貴重なお話をありがとうございました!
2024年、スタッフの皆さんと。「普段はリモートで住む場所もバラバラのスタッフですが、年に数回、集まって会議をしています!」
インタビューを終えて〜山本の編集後記〜
2022年3月にPiece of Syriaさんと初めてコラボしていただいた際、シリアの豊かで美しい景色を見て本当に驚きました。それまで、私が知っているシリアとは、ニュースで見るような、爆撃で破壊され、崩れ落ちた建物であふれた国というイメージだったのです。
豊かな自然、文化、人々の笑顔を見た時に、考えてみれば当然なのですが、そこに人々の、確かな、かけがえのない暮らしがあるということを感じさせられました。生まれた土地を愛し、家族と暮らすということ。それは、地球上のどこに住んでいても、変わらないことなのです。
アサド政権の崩壊によって、シリアは新たな局面を迎えています。希望の種が、すくすくと育っていくことを願います。
【2025/2/3-9の1週間限定販売】
シリアを再び行きたい国に。
パズルのピースを加えた鳩と、シリアの豊かな文化をイメージするモチーフを描き、平和への願いを込めました。
前回のコラボと同じ、“You are the piece of peace”、「あなたこそ、平和の1ピース(あなたの思いや行動で、世界は平和な場所になる)」というメッセージを添えました。
【2022年3月のコラボデザインも復刻販売!】
シリアに古くからあるダマスク柄を用い、シリアの豊かな土壌や文化、人々の暮らしを噴水から湧き出る水で表現しました。
よく見ると、噴水や水の中にパズルのピースのかたちが。団体の活動への思いを表すものとして描いています。
“You are the piece of peace”、「あなたこそ、平和の1ピース(あなたの思いや行動で、世界は平和な場所になる)」というメッセージを添えました。
JAMMINは毎週週替わりで様々な団体とコラボしたオリジナルデザインアイテムを販売、1点売り上げるごとに700円をその団体へとチャリティーしています。
今週コラボ中のアイテムはこちらから、過去のコラボ団体一覧はこちらからご覧いただけます!