CHARITY FOR

外国にルーツのある子どもたちが自分のルーツを否定することなく、自分らしく豊かに生きられる社会を〜NPO法人トッカビ

2024(令和6)年3月22日の出入国在留管理庁発表の資料によると、2023(令和5)年末の在留外国人の数は341万992人(前年末比より10.9%増)で、過去最多を更新しました。

親と共に日本に来た、あるいは日本で生まれた外国にルーツを持つ子どもたちが、自分のルーツに蓋をして、どこか「日本人になっていく」ことを選択せざるを得ないような社会があるのではないか。そう指摘するのは、今週JAMMINがコラボするNPO法人「トッカビ」代表の朴洋幸(ぱく・やんへん)さん(55)。

トッカビは今から50年前の1974年、在日コリアンの人たちに対して露骨な差別が見られた時代に、大阪で発足しました。朴さんは日本で生まれた在日3世で、自身もそのことを隠していた過去があったといます。

「今、多民族多文化といわれる社会であるにもかかわらず、日本で暮らすさまざまな国にルーツを持つ子どもたちに、50年前の在日コリアンと、未だ同じことが起きていると感じます。子どもたちには、自分のルーツを肯定的に受け入れ、自尊感情を育み、豊かに生きてほしい」。そう話す朴さん。

活動について、お話を聞きました。

お話をお伺いした朴さん

今週のチャリティー

NPO法人トッカビ

外国にルーツを持つ人々が、異なる社会的・文化的背景を隠したり否定したりすることなく、肯定的に受け止め、豊かに感じられる社会環境を築くことを目指して活動しています。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2024/09/16

大阪・八尾にて、
外国にルーツのある子どもと家族の居場所づくりを行う

成人向けの日本語教室「ときめき☆クラブ」。毎週1回、火曜日に開催

──今日はよろしくお願いします。
最初に、トッカビさんのご活動について教えてください。

朴:
大阪府八尾市で、外国にルーツがある子どもたち、またその親が集まれる居場所づくりをしています。トッカビ自体は50年前、在日コリアンへの差別や偏見が強かった時代に、それに負けない子どもを育てようと、在日コリアン青年、保護者が中心となって立ち上がりました。

──八尾は、外国からの移住者が多い地域なのですか。

朴:
八尾市には現在、8千人ちょっとの外国籍者の方が暮らしています。1980年代後半からベトナムからの移住者が増え、ほかに中国やフィリピンの方もおられます。
1975年にベトナム戦争が終結後、難民として世界中に人が流れていく中で、兵庫にも「姫路定住促進センター」が開設されました。難民の方たちはここで日本文化や日本語を学び、仕事と住む場所を支援してもらい、生活の場所となる地を移動される中で、とりわけ大阪府八尾市に多く居住するようになった要因がありました。

多様な人が暮らす八尾。「ベトナムコミュニティが広がる中で、いくつかのベトナム食堂や雑貨店が開業しています。写真は、ベトナムサンドイッチ専門店。朝にモーニングを提供しています」

朴:
ここ八尾には、もともと地方から関西に働きに来た方や炭鉱離職者のための低家賃の「雇用促進住宅」団地がありました。そのような人たちが時代とともに少なくなる中、ベトナム難民の方たちが居住するようになってきたのです。近隣に製造業の工場も多く、比較的日本語がわからなくても働ける場所が確保できたということも、外国からの移住者が定着した背景の一つです。

現在の八尾のベトナム人の構成をみてみると、難民としてわたってきた人の割合は減っていますが、多国籍なコミュニティがあることから、最近では技術系の在留資格を持つ方や、技能実習、留学生などの移住者も増えています。

毎年10月の最終日曜日に開催されている「八尾国際交流野遊祭」。「写真は、日本語教室の皆さんでフィリピンの踊りを披露しているところです」

「自分のルーツを否定することなく、
自分らしく生きてほしい」

2007年、全労済地域貢献助成事業を活用し、「コミュニティのおにいちゃん・おねえちゃんになろう」プロジェクトを実施。「外国にルーツのある高校生が『おにいちゃん・おねえちゃん』となって、小学生たちにホッとできる居場所の提供をめざして活動しました」

朴:
私たちは週に一度、こういった背景を持つ子どもたちが集まり、一緒に勉強したり遊んだりする場を設けています。
日本ではマイノリティと捉えられることもある子どもたちが、将来の選択肢を広げ、自分たちの力で生きていくための知識や考えをつけてほしいという思いから、在日コリアンの子どもを対象に活動していた時代より、進路保障には特に力を入れてきました。

というのは、学校に行かずに荒れている子どもの背景に、親の劣悪な労働環境や、それを起因とする家庭のしんどさがあることがわかっていたからです。差別や偏見の中を生きる子どもたちに「自分のルーツを否定することなく、自分らしく生きていってほしい」という思いがありました。

外国にルーツを持つ子どもたちが集まる場を持つことで、たとえば日本人ばかりの学校では話せない悩みやしんどさを吐露できたり、一人じゃないと思えます。また、文化や言葉の壁から孤立しがちな子どもとその親、家族を地域で支え、見守る役割も果たしています。

夏休み集中学習会の様子。「夏休みの宿題を中心に、地域の方たちにもかかわっていただき実施しました」

自分のルーツを消し、
「日本人として」生きる子どもたち

「にほんごカフェ」。「いつもの日本語学習形式から、少しリラックスして楽しく学べるよう開催しているものです」

朴:
外国にルーツを持つ家族が相対的にものすごくしんどいかというと、すべてがそうだとはいいません。ただ、こういった方たちならではの課題があります。

ひとつは、親が十分に日本の進路や進学事情を理解していなかったりした時に、子どもの進路について、親子間でギャップが生まれることがあります。子どもが進路を相談できる相手が限られてしまい、その子どもにあった進路選択につながっていないケースもあります。親は親で自分の育った環境もありますが、子は子で日本で生きていくわけで、その子にとってよりよい未来が選択できるように、教育機関や行政とも連携しながら支援する必要があります。

「コミュニティのおにいちゃん・おねえちゃんになろう」プロジェクトの一環で、国境のない世界地図作成。「トッカビの活動で同じような背景を持つ少し年上のお兄さんやお姉さんに出会います。ロールモデルが増えることが、子どもたちの未来の選択につながります」

朴:
もうひとつが、親子の「言語の壁」です。
日本で生まれ育った子どもは、当然ですが日本語が話せます。一方で親がたどたどしい日本語を話している時に、自分の親であってさえも「へんな日本語」と小馬鹿にしてしまう場面があるのです。あるいは「周りにいる日本人たちに聞かれたくないから」と、人前で家族と、日本語以外の言葉で話すことを拒む姿もありました。

「日本人・日本語が絶対」である今の日本の社会に対する、子どもたちなりに感じる同一性が、このような態度をとらざるをえない存在を生み出していると思うんです。

少なくとも自分の親が話す言葉、自分のルーツの言葉に対してネガティブな印象を抱くことなく、将来、もし学びたいと思った時にはその言葉が自然に入ってくれたらと、トッカビではベトナム語のルーツ語教室も開催しています。

トッカビが開催している「ベトナム語教室」。「独自教材を使用し、教室に通っていた子どもが講師を務めてくれています」

朴:
この教室に来ているベトナムにルーツのある子どもたちも、高学年になればなるほど「日本で暮らしているねんから、ベトナム語はいらんやん」と言ってしまう子もいます。でも、それはすごくもったいないと思うんです。
3世、4世と世代が進むにつれて、いずれ必ず日本語化はしていくので、親がその国の言葉を話すうちに、できるだけ触れる機会を持つことが大事だと思います。

──自分のルーツをたどる上で、言語や文化は切っても切れないところがありますね。

朴:
言語と文化がすべてだとは思っていません。ルーツにかかわる言葉が話せなくても、そのルーツについて考えることはできるからです。また、その国の言葉ができないために「自分はベトナム人、中国人ではない」という葛藤を生んでしまうこともあります。

八尾市では、1998年に「八尾ベトナム人会」が発足。地域の人にも呼びかけ、毎年ベトナムの旧正月にお祝いイベント「八尾ベトナムTET」を開催している

朴:
逆に在日コリアンの場合、植民地だった時代に日本語を強要された歴史もありました。しかしそれから何十年にもなる今、「親はベトナム語を話すのに、子どもたちは日本語しか話さない」という現象が起きています。また、ベトナムや中国名ではなく、日本の名前を使う子どもたちも増えています。

「多民族多文化」といわれる今の時代において、自分のルーツを消し、日本名で、「日本人として」生きる子どもたちがいるという現象は、私はどこか普通の姿ではないと感じています。なぜこのようなことが起こるのかを、考える必要があるのではないでしょうか。

──確かに…。

朴:
日本で生きていくために、自分のルーツに蓋をして、画一的に「日本人になっていく」というのは、何かおかしいのではないでしょうか。家ではベトナム語や中国語、その文化が飛び交う世界があるのに、一歩外に出たら、まるで日本人としての生き方を選ばざるを得ないような、社会の構図があるのではないでしょうか。

どのような生き方を選択するかはそれぞれで、どのような生き方も否定されるものではありません。
ただ、選択肢の中に「自分のルーツを出してもいい」もあると知ってほしい。子どもたちには、自分のルーツを知り、受け入れ、アイデンティティや自尊感情を育み、日本で生きていく上での豊かな表現につなげてほしい。選択の幅を広げ、多様な生き方をしてほしいと思うのです。

「トッカビは、写真の長屋から『トッカビ子ども会』としてスタートしました。古い長屋でしたが、『ぼくらの小さな砦』として、子どもたちが通いました」

制度からも排除された、
在日コリアンの歴史

1974年、トッカビが設立して最初に発行された『トッカビニュース No.1』。発足当時の思いが記されている

──トッカビさんは 今から50年前の1974年、在日コリアンへの差別や偏見が強かった時代に生まれた団体だと伺いました。どのようなことがあったのですか。

朴:
在日コリアンだという理由だけで後ろ指を指され、石を投げられたり、差別を受けたりしてきた歴史があります。

私の祖父は、1938年に朝鮮半島から日本に来て、炭鉱で働きました。当時、日本人の日当が2円だったのに対して、祖父の日当は1円だったと聞いています。祖父に限らず、たくさんの方が在日であるという理由で差別を受けてきました。

祖父は日本にきて3年目に、朝鮮半島に残してきた家族を日本に呼び寄せます。私の父は、1942年に日本で生まれました。しかし、他の人と何ら変わらず日本で生まれ育っているのに「外国人」と排除されてきたのです。

トッカビが発足した当時の写真。「運営を支援するために、オモニ(お母さん)たちがキムチをつくって販売しました」

──「在日コリアン(在日朝鮮人、在日韓国人)」とは、そもそもどのような歴史の中で生まれたのですか。

朴:
朝鮮半島を起点にアジアに領土拡大狙っていた日本は、1905年より事実上の植民地支配をはじめ、1910年の「韓国併合」により正式に植民地としました。ここは日本の統治下ですよということで、伊藤博文が長を務めた「統監府」が置かれ、人々を「朝鮮戸籍」というものに登録・把握していきました。

「農地を計画的に把握する」という名目で、日本にとって有利な条件で土地をどんどん買い取って管理下に置きました。それによって地代が高騰し、それまで農地を耕していた小作の人たちが職を失い、新たな働き先として日本に流れてきたという歴史があり、1920年代から30年代にかけて年間8万から15万人の朝鮮人が日本に渡ってきました。

大阪では1923年に日本と済州島との間に定期航路が運行されるようになり、済州島出身者のコミュニティが形成されていきました。そういった人たちも含め、日本国内の労働力不足を補うために主に工業の分野で働いていました。また「日本人扱い」として、戦争による徴用・徴兵でも、多くの朝鮮人が日本へ動員されました。

──そうだったんですね。日本人扱いなのに、日本に来ると差別され、石を投げられる…。では彼らは一体、何人であればよかったのだろうと考えてしまいます。

朴:
戦後、苦労する親の背中を見て育った2世になると、日本社会に対しての諦めが生まれ、本当にやりたいことや好きなことを捨て、生きるための処世術を編み出していくようになる人もいたと思います

私の父も就職する際、会社から「戸籍謄本を持ってきてください」と言われたのですが、外国人で戸籍謄本はないため、就職を諦めないといけないこともあったようです。全てそうだったとは言いませんが、差別が当たり前にある社会に対して諦めが先に来て、それを変えるために立ちあがるというのは、とても難しかったと思います。

1975年、トッカビ子ども会の第1回サマースクール。保護者たち手作りのチョゴリを着て、発表する子どもたち

──そうだったんですね。

朴:
1945年に日本が敗戦し、その後GHQが日本の制度を整えていく中で、在留の人たちの取り扱いは不明確な状態におかれました。
日本にいる植民地出身者は「みなし外国人」とされ、外国人登録をさせられ「外国人」扱いとなりました。その後1952年の「サンフランシスコ講和条約」発効に伴い、法務府民事局長通達(一片の通達)によって「正式に」外国人とされ、選択する権利もなく日本国籍の離脱が明確なものとなったのです。

国民保険や年金に加入できず、児童手当も受けられず、公営住宅に入ることもできません。これ以降、「日本国民ではない」「国籍が違う」という理由で、在日の人たちがどんどん排除されていきました。
本来であれば、在日の人たちに対して、日本籍の選択権を与えるといった、立場を守るような法律を作るべきだったのではないかと思います。

──確かに…。

朴:
社会保障は受けられないわけですが、一方で、日本で暮らしていて税金は納める義務の対象です。差別と貧困の中、あらゆる制度からは排除される一方で、税金は徴収対象とされたのです。

1979年の「国際人権規約」批准、1981年の「難民条約」批准による内外人平等原則によって、在日の人たちにも社会保障制度が適応されるようになりましたが、撤廃されるまで長い間、制度上の排除が続きました。

「外国籍者は、公務員になることができませんでした。八尾市の一般事務職採用にあたり、国籍条項撤廃を求めて地域の人々や労働組合、各種団体と共に闘い、1979年に撤廃されることになりました」

──苦しく悔しい歴史があったんですね。

朴:
在日の人たちは、制度上の排除をおかしいと捉えられていたし、日本に対して敏感にならざるを得ませんでした。トッカビはそんな中、1974年に「トッカビ子ども会」として産声をあげます。在日の中学生を対象にした勉強会がきっかけとなるのですが、在日の青年や保護者だけでなく、「こんなおかしなことがあってはならない」という思いを持った学校の先生や学生など日本人の方たちがいたんです。

また当時は、部落解放運動が先行して始まった時期でもあり、社会から排除を受けてきた人たちが声を上げる姿を見て大きな影響を受けた部分もあったと思います。トッカビは日本人の協力と共感があったからこそ、今日まで活動を続けてくることができたんです。

「外国籍者は、郵便外務職員にも受験すらすることができませんでした。トッカビに通っていた李君、孫君が高校生卒業後の進路として郵便外務職職員の国籍条項の壁を打ち破るべくチャレンジし、多くの支援のもと1984年に撤廃をかちとり、採用試験に合格しました。次世代に続く進路保障の開拓となり、その後多くの在日コリアン青年が採用試験にチャレンジし働くことにつながりました」

在日であることを公にして生きていくと決めた
先輩との出会い

朴さんのハルモニ(おばあさん)の、還暦のお祝いの一コマ。「親戚が集まり、韓国の伝統的な形式に基づいてお祝いしました」

──朴さんご自身は、在日3世であることをどのように受け止めておられますか。

朴:
私も、長いこと違和感を感じながら生きてきました。
家の中には在日としての要素がいっぱいありながら、それでも母親から「外では朝鮮人であることを言ってはいけない」と言われ、どこかモヤモヤしながら、在日コリアンであることを隠して生てきました。本当は、隠す必要などないのですが…。

──そこから、在日であることを公にされたのはどうしてですか。

大学の時に出会った、一人の日本人の先輩の存在です。
在日の問題は在日の問題で、日本人が考える問題だとは思っていませんでした。しかしその先輩は在日コリアンの歴史に詳しく、「在日であることは隠すことではない」「そもそも、君の親の歴史としてはこんなんがあるはずや」「お父さんが段ボールの回収業をやってるんは、就職差別があったんちゃうかな」「(日本人の母との)結婚も差別があって、お母さんは苦労しはったんちゃうかな」というようなことを、僕に指摘してくれたんです。

それで実際に親に尋ねたら、本当にその通りでした。

学生時代の朴さん。トッカビのクリスマス会の片付けをしているところ

朴:
一朝鮮人の存在、その人が社会に置かれている状況を知ってくれて、肯定してくれる人がいたこと、自分の立場に立って物申してくれる人がいたことは、僕にとってものすごく安心感につながりました。

その先輩の働きかけもあり、それまで日本名を名乗っていましたが、20歳の時に、民族名である「朴洋幸(ぱく・やんへん)」に変えました。先輩がくれた安心感があって、在日3世であることを、外に出して生きていくと決めたんです。

──大きなご決断だったんですね。

朴:
その先輩がトッカビを教えてくれて、日本の社会でコリアンとして生きる場が、こんなに豊かにあるんだと知りました。もし先輩との出会いがなかったら、今でも「松山洋幸(まつやま・ひろゆき)」という日本名で、コリアンであることを隠して生きていたかもしれません。まして、こんな活動もすることもなかったと思います。

僕が先輩と出会ったように、人生には、そんな出会いがすごく大事やと思っています。
トッカビとして、何か子どもたちにすごいアプローチしているわけではないし、特別大きな成果があるというわけでもありません。
でも思いを持って、継続してこのような場を持つことが大事やと思っていて、それによって子どもたちが自分のことを肯定できたり、昨日よりちょっと好きになれたりしてくれたらと思っています。

「2007年、親が在留資格を失うことによって、非正規滞在の状態に置かれ、退去強制を求められる中国人の兄弟がいることが分かり、その退去強制取り消しを求めた裁判の支援に取り組みました。私自身、トッカビのスタッフとなって間もない時のことであり、幼くして日本に来た兄、日本で生まれ育った弟でさえも退去強制の対象となっていることに怒りを覚えました。裁判支援を通じ、その家族のさまざまな思いに触れることで、外国籍者に対するこの社会の理不尽さ改めて強く感じた出来事でした」

「違いを受け入れることが、
当たり前に意識される社会を」

「コミュニティのおにいちゃん・おねえちゃんになろう」プロジェクトの中心となった当時の高校生たち。「自分たちのルーツを踏まえ、さまざまな場所で活動を紹介してくれました」

──多様な人が生きる今の社会、私たちに何ができるでしょうか。

朴:
多様な人が生きているというのは、すでに皆が知っている状況やと思うんです。
ただ、その人たちが社会からどう見られているのか、この社会でどういう不公平感が生まれているかというのは、実際まだまだ可視化されていません。それが可視化されていくことが大事やと思います。

近所に人が引っ越してきたら、あの人がどうやこうやじゃなく、当たり前のご近所さんとして、違いを受け入れ接していく、それが当然のこととして意識される社会をつくっていく必要があると思っていて、トッカビとしてそのために何ができるのかを考えながら活動しています。

日本語教室「ときめき☆クラブ」の交流会後の集合写真

朴:
団体名の「トッカビ」は、朝鮮の民話に登場するおばけ「トケビ」からつけられました。時に民衆を困らせますが、災害など困難な時には、おばけの力を使って民衆を助けるという話もあります。おばけのトケビのように、地域で人々に愛されながら、多民族多文化で、差別のない共生社会をつくっていきたいと思います。

在日ということでは私はマイノリティに分類されますが、性的マイノリティや障がいなど、またテーマが異なると、私もマジョリティであって、知らないうちに差別を生んでいるということがないとはいえません。まずは知ること、知ろうとする姿勢を大事にしてもらえたら嬉しいです。

トッカビが発足した当初から、形式を変えつつも継続している「中学生勉強会」

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

朴:
トッカビでは、自己肯定感が低くなりがちな外国にルーツのある子どもたちが、まずは自分が好きな分野で知識を深めることで物事を深掘りする力を身につけ、ルーツも含め自分に自信を持って生きていけるようにしたいという思いから、それぞれの好きなことを深掘りする「トッカビ探検隊」というプロジェクトを行っています。

今回のチャリティーは、このプロジェクトに必要な資金として、またベトナム語のルーツ教室の教材費として、活用させていただければと思います。団体設立から50周年を、ぜひコラボデザインアイテムで応援いただけたら嬉しいです。

──貴重なお話をありがとうございました!

事務所にて、スタッフの皆さんと

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

在日コリアンの歴史について、社会保障が受けられなかった時代があったと知らず、朴さんに教えていただいてとても驚きました。それが撤廃されたのが割と最近であることにも驚きました。どれだけしんどく、苦しかったでしょうか。
さまざまな背景の人たちがいる。そのことは周知の事実でありながら、何かそれが表で共有されづらい、多様な価値観をどこか受け入れない社会というのが、確かに存在するように思います。その「違和感」は、もしかしたら自分自身を見つめることでも、何か解決する部分もあるのかもしれません。

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【2024/9/16~22の1週間限定販売】
おばけのトッカビと子どもたちが、一緒に楽しく行進しています。
それぞれが自分らしく前に進む様子を描くことで、一人ひとりが本当の自分や自分のルーツを知り、受け止め、またそれを周囲に受け入れてもらいながら、ポジティブに生きていく様子を表現しました。

“Just believe in yourself(ただ、自分を信じて)”というメッセージを添えました。

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JAMMINは毎週週替わりで様々な団体とコラボしたオリジナルデザインアイテムを販売、1点売り上げるごとに700円をその団体へとチャリティーしています。
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