CHARITY FOR

東日本大震災から13年。震災を後世に伝えるため、津波到達地点に、今日も桜を植え続ける〜NPO法人桜ライン311

13年前の今日、2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生。
1万9,765名(消防庁発表「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の被害状況(令和5年3月1日現在)」より)の方が亡くなりました。

岩手県陸前高田市は、津波による浸水被害が大きく、8,000世帯のうち3,807世帯が津波で全損。岩手県で最も多い死者・行方不明者1,808名の命が失われました。
発生直後は未曾有・想定外と形容された東日本大震災ですが、今は千年ほどの周期でこの地域を襲っている「周期的な地震と津波」ということが知られています。

「もし、震災前にそのことを多くの人が知っていたら、被害はもっと少なくて済んだのではないか」。

陸前高田で生まれ育った、岡本翔馬(おかもと・しょうま)さん(41)。
震災の記録、教訓を後世に伝えたいと、2011年10月、津波が到達した地点に桜の木を植えるNPO法人「桜ライン311」を立ち上げ、2013年7月からは代表理事を務めています。

「僕らが生きる意味は、震災で亡くなった人たちの死を無駄にしないこと。彼らの分まで生きること」と話す岡本さん。

あの日から13年。活動について、お話を伺いました。

お話をお伺いした岡本さん

今週のチャリティー

NPO法人桜ライン311

岩手県陸前高田市の東日本大震災による津波の最大到達点上に桜を植樹し、震災を後世につたえるためのプロジェクト。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2024/03/11

後世に伝えるために、津波到達地点に、桜の木を植える

津波の到達地点である高台に植えられた桜の苗

──今日はよろしくお願いします。最初に、団体のご活動を教えてください。

岡本:
桜ライン311は、陸前高田にて、東日本大震災で津波が到達したライン上に桜の木を植え、その育成管理を行っている団体です。桜の木を植えることで津波の到達地点を住民の方々に認識してもらい、次に津波が来た時に、後世の人たちの人的な被害を軽減したいと思っています。

陸前高田で津波が到達したラインを結ぶと、約170km(170,000m)に及びます。このライン上に、10mに1本の間隔で桜を植える、つまりゴールは1万7000本を植えることです。これまでに、2,200本(2023年12月末)の桜を植えました。
植樹地は個人の所有地であったり行政の所有地であったりといろいろで、個人の所有地の場合、植樹した桜の木の所有権をお渡しするかたちで許可をいただき、植樹後は、僕らの方で木の一定の管理を行っています。

植樹した桜を管理するスタッフ。「植樹した桜は1本1本、花の有無、害虫・害獣被害や病気などを目視で確認し、必要に応じて肥料や薬剤などを与えています」

──そうなんですね。

岡本:
毎年春に花が咲くことで、多くの方が「きれいだな」と意識を向けられると思うんですが、被災を経験している土地の所有者さんにしてみると、花が咲く度、つらく悲しい記憶が呼び起こされる桜でもあるわけです。

「次の世代のために、震災の記憶を残していかなければならない」ということには共感しても、個人としてそれに取り組めるかというのはまた別の話であって、「わざわざつらい記憶を呼び起こすものを、植えるなんて考えられない」という方もおられます。ただ、活動を始めた頃に比べると、それも徐々に減っているのかもなと感じています。

植樹会の様子。全国からの参加者が、一本ずつ桜の苗木を植える

──なぜでしょうか。

岡本:
時間の経過とともに、少しずつ気持ちの整理がついたということもあると思います。

もう一つは、復興によって町の中から震災の痕跡がどんどん消えて無くなり、新しく生まれ変わっていく中で、「後世のためにも震災のことを残したい」という思いが、以前より強くあるように感じています。機運の醸成はやっと進んできたのかなというのが率直なところです。

復興が進む陸前高田。現在、中心市街地には、大型商業施設を中心に、図書館や博物館、飲食店や公園などが整備されている

「語り継がれるためには、
地域の方たちに受け入れてもらうこと」

2011年7月頃、陸前高田の中心市街地。「写真に写っている3階建ての建物は、津波からの避難場所ではあったものの被災し、多くの命が失われました」

岡本:
クラウドファンディングで資金を集め、2023年には最初の植樹地での桜のライトアップを行いました。実はライトアップの話は、活動を始めた直後の2012年からあったのですが、植樹には追悼の意味もあり、観光的な要素の強いライトアップというのが、その頃はまだ、感情的にも状況的にも、今ひとつフィットしませんでした。

しかし時間の経過の中で、町の状況も、住民の方々の感覚、僕らの感覚もまた変わっていきました。「今だったらできるんじゃないか」と、挑戦することにしました。

──時が流れたのですね。

ライトアップされた桜の木。静かな暗闇の中に、満開の桜が浮かび上がる

岡本:
ライトアップの意図は、震災に直接関係する部分と、関係しない部分があります。

まず直接関係する部分は、防災・減災の面です。時間の経過と共に震災の痕跡がなくなっていく中で、桜の木をライトアップすることで、地域の方たちに津波到達地点を認知してもらいやすくなります。

満開の桜をライトアップすると、地域の方たちは「景色」としてそれを認識しますよね。日中ではなく夜、ライトアップされた桜が暗闇の中に浮かび上がることで、「津波が来たら、あそこまで逃げるんだ」ということを、可視化して認識してもらいやすい効果があると思っています。そのことから、月命日である毎月11日と、毎年3月11日の周辺3日にライトアップをしています。

団体として初めて、2011年11月に植樹したカワヅザクラ(浄土寺(陸前高田市高田町))。満開を迎える時期、桜巡りを楽しむ地域住民の姿も

岡本:
そして、直接関係しない部分はまちづくり・景観づくりの面です。震災前、陸前高田の人たちが集まって花見をしていた場所は、津波によって流されてしまい、春に花見ができる場所がありませんでした。

僕らが桜の木を植え続けてきた中で、少しずつ春に満開になる現場が増え、それを楽しみにしてくださる方も出てきたので、夜桜も楽しんでもらえたらという思いがありました。そのことから、こちらは満開のタイミングを毎年見計らって3日間ライトアップをしています。

──そうなんですね。

岡本:
僕らは、桜の木を植えているだけでしかありません。僕らだけでは、この活動は成り立ちません。この桜がどんな意味を持つものであるのかということを、地域の方たちが認識し、ポジティブなものとして語り継がれて初めて、植樹する意味が残っていくのだと思っています。そのためには地域の方が、植える意味を理解し、共感し、参加してもらうことがとても大切なことです。

つまり、地域の方の温度感がものすごく大切。単にどんどん植えても、意味がないんですよね。「次世代に残していく」ためには、地域の方たちに理解し受け入れてもらうことが、一年に何本植えるという計画よりも、ずっと大事なことなんです。

2011年、陸前高田の中心市街地にあったスーパー周辺の様子。「道路沿いは瓦礫も整理されていましたが、手つかずの地域も多々ありました」

「日本人に馴染み深い桜の木だったからこそ、
ここまでの共感や広がりを得られた」

2012年11月に植樹した桜。この土地を見守り続けてきた桜は、今年もまた、満開の時期を迎えようとしている

──なぜ、桜だったのでしょうか。最初から、桜を植えようと決めておられたのですか。

岡本:
いいえ。もっというと「植樹」というかたちさえ決まっていませんでした。
陸前高田は昔から、何十年かに一度、津波の被害を受けてきた地域です。近いところでいくと、明治、昭和にそれぞれ大きな津波の被害があったことが記録に残っています。

先代の人たちは、石碑によってそのことを後世に伝えようとしたようで、「津波記念碑」と呼ばれる石碑が三陸全体で317本あり、そのうちの15本が陸前高田市内に現存しています。

「祖母の自宅の近隣にある津波の記録を残した石碑です。『低いところに住家を建てるな』『津浪と聞いたら慾捨て逃げろ』という文字が刻まれています」

岡本:
じゃあ、先代が伝えようとしてくれたその石碑の存在を、後世を生きる僕たちは知ってるんだっけ?というと、情けない話ですが、私は全く知りませんでした。知っている人はゼロではないとは思いますが、世代によっては全く知らない人も多かったと思っています。

先代は「次に津波が来た時は、ここまで逃げるように」と教訓を彫ってくれていたわけですが、僕はそれを知らなかった。どれだけ伝えようと思っても、次の世代が受け取りやすいものでないと、残っていかないということなのだと思います。

東日本大震災における、陸前高田市の浸水区域図。ピンク色の部分が浸水した地域。桜の植樹をした場所にピンを刺し、視覚的に「桜ライン」の進捗を表したもの

岡本:
石碑は、文字が彫れる点、管理が不要な点などがメリットですが、多くの人が認識し、記憶に残るものかというと、そうではない。後世に残していくために、人より寿命が長く、保存が可能でありながら、もっと多くの人たちがポジティブに受け取れるもの、愛着を持てるものはなんだろうと話し合い、桜の木を植えることにしたという経緯があります。

実は桜以外にも、7種類ほどの樹木が候補にありました。でも、桜は日本人にとって特別で、最も愛されている木です。日本全国、「満開の桜」を想像できない人はいないのではないかというくらい、日本人にとって馴染み深い、身近な木ですよね。

そしてまた、四季の変化に富み、咲き終わると花びらが散って、命のはかなさや、亡くなった方たちへの思いを重ねられる木でもありました。私たちは亡くなっていった方への追悼も目的としていたので、とてもいいなと思いました。
もしこれが桜ではなく、別の木だったら…、ここまでの共感や広がりはなかったと、今となっては思います。

桜の開花を共に喜ぶ、地元の地権者とスタッフ

11年前のあの日。
家族の安否確認のため、陸前高田へ向かった

被災した岡本さんの実家。「高校まで過ごした実家は、文字通り全損でした。全損の車の真下が私の家だった場所です」

──13年前の今日、2011年3月11日のことを教えてください。

岡本:
高校卒業とともに地元の陸前高田を離れ、東京で働いていた僕は、当時28歳でした。
震度5を記録した都内も、かなり大きく揺れました。震源がわかるにつれ、どうやら東北だと。会社の取引先が東北にたくさんあったので、まず社内に災害対策班ができ、いろいろと情報収集をしているうちに、福島の原発のことや、津波によって相当大きな被害が出ていることがわかってきました。

テレビで陸前高田から20km南にある気仙沼、48km北にある釜石の様子が流れていました。報道こそないものの、その間にある陸前高田も、きっと大きな被害を受けているだろうと思いました。

3月11日の夜、関東にいる同郷の人たちに連絡をとって情報収集を試みましたが、皆「わからない、誰とも連絡がとれない」と。
1週間から10日待てば、何か情報も出てくるでしょう。だけど、地元には家族と友人がいます。もしかしたら今、死に際にあるかもしれない。その想定すらできるのに、そこまで待てるのか?いや、待てないと思いました。

陸前高田を目指して、とりあえず行けるところまで行ってみよう。道中で通行止めやライフラインの情報を収集して発信すれば、僕らの後に東北に向かいたい人たちの参考にもなると思いました。

震災直後の市役所周辺。「市街地でしたが、このような惨状でした」

岡本:
3月12日は土曜日だったので、上司に電話して、「実家が高い確率で被災していると思うので、無期限で有給を取らせてほしい」と頼みました。上司は「行っておいで。その代わり、現地から連絡がつくようになったら、すぐに会社に連絡をしなさい」と送り出してくれました。

3月13日に日付が切り替わった深夜、詰められるだけの支援物資を車に積んで、同郷の友人二人と共に、東北に向けて出発。通常であれば高速道路に乗って5時間半〜6時間ほどの道のりを、16時間かけて移動しました。

──そうだったんですね。

岡本:
3月13日の夕方、現地に到着。陸前高田に入る時、海から大体4〜5km離れたところまで瓦礫だらけになっていました。それを目の当たりにした時に、「家族はもう死んでいるかもしれない」と覚悟を決めました。

もし、そうなのであれば…家族の遺体を探したい。実家を見たい。
しかし自衛隊や警察から、「危険を伴うため、被災した地域に暗い時間に入ってはいけない」という指示が出ていました。翌日、日が出るのを待って、実家に向かいました。

岡本さんの通った高校の体育館。「天井まで津波が押し寄せ、原型をほどんど留めていないのが分かるでしょうか」

──その時は、どんな気持ちでしたか。

岡本:
押しつぶされそうな絶望感でした。いや実際、押しつぶされていました。
付近では自衛隊や消防による遺体の捜索がスタートしていて、後で収容するために、道路脇の15〜20mおきに、直接姿が見えないように布や毛布がかぶされた遺体が、至るところに並んでいました。

心のどこかで希望を持っていたわけですが、ぐちゃぐちゃになった実家の前に立った瞬間は、その希望も打ち砕かれました。
「もしかしたら、どこかの避難所にいるかもしれない」と、その時すでに七十いくつあった避難所を、片っ端から訪れることにしました。すると2箇所目に訪れた避難所で、幸運にも家族と再会できたんです。

──よかったですね。

岡本:
ただ、素直には喜べなかった。一緒に行った二人はまだ家族が見つかっておらず、喜んではいけない気がしました。結果として僕ともう一人は家族皆無事でしたが、一人は、お母さんが亡くなりました。

2日目、3日目と避難所を回るうちに、彼の方から「避難所ではなく、遺体安置所も回りたい」という話があって、家族の安否が確認できた自分は同行すべき場所ではないと思い、彼が遺体安置所を回っている間、避難所でボランティアをしました。

2011年夏、「うごく七夕祭り」を開催。「うごく七夕祭りは、陸前高田市高田町に江戸時代から受け継がれてきた伝統の祭りです。この地域に根付く伝統を絶やしてはならない、震災前のようにはいかなくても、祭りを復活させたいと、なんとか開催した夏でした。どんなに大変な状況でも、仲間がいれば『前に進める』と感じられる強さがあります」

「僕にしかできないことを」

津波到達地点となった山間。植樹のためにスタッフが整地し、植樹会の参加者が植樹する

──そこから、どんなふうに桜ライン311へとつながっていったのですか。

岡本:
その時は2週間近く現地にいて、一度東京へ戻りました。
3月26日に東京に戻ってくると、自宅沿いの環八(環状8号線)には、いつもの渋滞がありました。

当たり前のように地下鉄が動いていて、コンビニは営業していて…、震災前と変わらない光景がそこにはありました。でも僕がさっきまでいた場所は、明日の水さえないような場所でした。その両方の世界に属し、自分は何をやるべきなんだ、どちらにいるべきなんだと思った時、「ここではないな」と結論を出しました。

──そうだったんですね。

岡本:
震災で、地元で頑張っていた友人たちが亡くなりました。避難誘導のさなか、津波に襲われて亡くなった友人もいました。

僕の仕事は、いくらでも代わりがいる。僕にしかできないことをやらないと、きっと後悔すると思いました。4月の頭には「ゴールデンウィークで退職させてほしい」と会社に相談し、その後、会社を辞めて陸前高田に戻り、避難所の運営を支援する団体を立ち上げました。

避難所支援の団体を立ち上げ、活動をしていた時の一枚。「全国から届く支援物資の開封・仕分け・分類・整理をしているところです。ひとつ一つが手作業で、実に膨大な作業でした」

──最初に桜ライン311を立ち上げられたわけではないんですね。

岡本:
はい。夏頃に、避難所支援の活動で知り合った、避難所の自治会長だった佐藤(のちに桜ライン311を設立する際の副代表)から「震災に関して、自分ができることがあれば何でもやりたいと思っている。手伝ってくれないか」という相談を受けました。

当時、仮設の集会所が夜の間、今後のまちづくりについて話し合う場として開放されていました。
そこで、のちに桜ライン311の初代代表となる、青年団の会長だった橋詰から、自治会長の佐藤に「陸前高田市内に桜の公園を作りたい」という相談があったのです。
橋詰は震災当時、消防団員として遺体の捜索や収容に関わっていましたが、砂と瓦礫の中での作業で、踏んだ釘が足を突き抜けてしまい、そこから携われなくなったことを大変悔いていました。

橋詰から「桜の公園を作りたい」という相談があった時、佐藤には「市内の津波到達地点に、震災を後世に伝える石碑を建てたい」という思いがあり、そんな中で出てきたのが「津波の到達地点に、桜の木を植える」という構想だったのです。

前代表の橋詰さん(写真中央)、副代表の佐藤さん(写真右)と。「3人での写真は、実はこの一枚しかありません。ここから始まった、そんな写真です」

岡本:
橋詰と佐藤、他の仲間と共に桜ライン311を立ち上げ、僕は当初、副代表というかたちで関わっていました。
橋詰が陸前高田を離れることになり、代表を引き継ぐのは佐藤と私のどちらかだろうという雰囲気でしたが、私としては、最初に団体設立のきっかけを作ったのは佐藤と橋詰だったので、佐藤にやってほしいと率直に伝えました。しかし佐藤は、ふたまわり近く年の離れた僕に「後を継いでほしい」と頭を下げてくれたんです。

当時、佐藤は45歳ほど。「この組織は若い人が作ったものだし、私は50になったら引退するつもりだ。ここから先を引っ張っていくのは翔馬さんにお願いできないか」と。
その時のことは今でも忘れませんし、僕にとって大きなターニングポイントになりました。そして2013年の7月に代表を引き継ぎ、今に至っています。

陸前高田市立高田小学校にて、復興学習の一環として講演を行う岡本さん

「家族を失ったけれど、
『明日も生きないと』と思えるようになった」

2023年3月、浄土寺にて、ライトアップされた満開の桜。「浮き上がって見える夜桜。その儚さがとても表れていると感じた一枚です」

──活動を振り返り、印象に残っている出来事はありますか。

岡本:
地域の皆さまや全国の支援者さん、それぞれ印象に残っていることはたくさんありますが、地権者(桜の植樹を許可してくれる所有者さん)のエピソードをお話しします。Oさんというおばあちゃんのお話です。

2013年春に、桜の木を10本植えた土地の所有者のOさんから電話がかかってきました。「家を建て直すので、土地を造成することになった。その間、今年の春に植えた桜を預かってほしい」という話でした。一旦、桜の木を預かり、土地の造成と自宅の再建の後に戻すことになったのですが、「10本の順番を、変えないで戻してもらえないか」とおっしゃるのです。

満開の桜ライン(桜並木)とともに写るOさん。Oさんは全国のボランティアから「ママ」と呼ばれ、慕われている

岡本:
順番って何だろう?と思いますよね。Oさん曰く「一本一本の順番に意味がある」と。
「植樹した人たちが自分の植えた桜を見に来る時に、自分が植えたのは左から2番目だとか、この辺だったとか、順番で覚えているから」と。「順番が変わると、どれが自分の植えた木かわからなくなって、きっと植えた人たちも寂しいと思うから」と言われて、なるほどと思いました。

Oさんは息子さんを亡くし、震災直後に夫も亡くされて、一人で生活されていました。しかし植樹を通して出会った人たちと交流が続き、思いを寄せ合っているんだなと心が温かくなりました。

植樹会は、全国から集まった参加者が3組で1つのチームを形成。「植樹会はリピーターの方が多く、顔見知りの参加者同士やスタッフとの交流の場にもなっています」

岡本:
別の時に彼女が言ってくれたのは、「震災から生き残って、よかったと思ったことはほとんどない。でも、全国に私のことを気にかけてくれる人ができて、その人たちの思いに応えるためにも『明日も生きないと』と思えるようになった。そのきっかけをつくってくれたのは、あんたら桜ライン311なんだ」と。

この言葉は、僕にとっては衝撃的な一言でした。未来の命を守るためにスタートした植樹が、震災をきっかけに縁を持った方が、お互いに思いを寄せ、支え合う、つながりの場としても機能しているということを、初めて認識した出来事でした。

設立最初は未来の命を守ることに思いを馳せていましたが、今を生きる人に、こんな形でもお役に立てるのだと、とても誇らしく思いました。
今までも、そしてこれからも、できるだけ日本全国の方と地域の方たちをつなぐ場としてもありたいと思っています。

植樹会に参加した人たちの集合写真。植樹に参加した人は、累計で7,800名を超えた

「僕らが生きる意味は、彼らの分まで生きること」

2023年11月、七五三にて、娘、息子と写る岡本さん。「いろんなことはもちろんあります。だけど『俺は今日も幸せだぜ』と胸を張って言えることを大事にしたいと思っています」

──岡本さんのモチベーションを教えてください。

岡本:
僕は先端的な建築やデザインが好きで、震災前は東京での生活をすごく愛していて、地元に戻るきっかけも理由もありませんでした。それが震災をきっかけに地元に戻り、団体を立ち上げ、組織を預かり、こうして活動させてもらっています。

活動の継続はすごく大変ですが、僕の根本にあるのは、「後悔しない」というのがすべて。
大変とかできるとかじゃなくて、必ず「後悔しない」方を選ぶようにしてきました。なぜか。震災で亡くなった友人たちは、今を生きられないし、選べないからです。

「植樹会で同じチームになった東京の企業と地元の参加者が、その後も連絡を取り合い、毎年一緒に植樹会に参加してくださっています。企業さんは新人研修を兼ねて陸前高田に来訪し、地元の方たちのと交流が生まれています」

岡本:
僕が生きる意味は、彼らの死を無駄にしないこと。彼らの分まで生きること。
命は、いつ終わりがくるかわかりません。だから後悔のないように、生を謳歌すること。今、後悔しない道を生き抜くこと。これが、僕の根本にある、東日本大震災から得た教訓です。

後悔なく生きることが、きっと亡くなった方への弔いにもなります。そんな風に一人ひとりが思ってくれたら、日本はもっともっと良い方向に進んでいくと思っています。

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

岡本:
チャリティーは、桜の木を植えるために活用させていただきます。
桜の苗木の植樹には、一本あたり18,000円ほどかかります。ぜひ、桜ラインに加わっていただけたら嬉しいです。
是非、今回のアイテムを着て、陸前高田に植樹にもいらしてくださいね!

──貴重なお話をありがとうございました!

2023年4月、満開の桜の中で、スタッフの皆さんの集合写真

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

桜ライン311さんとのコラボは2016年12月以来2度目です。1回目のコラボ当時、東日本大震災から5年。さらにそこから8年もの月日が流れたことになります。
時が経ち、震災の話題に触れる機会も減りましたが、今被災地はどうなっているのだろう。被災地の方たちはどのように感じていらっしゃるのだろう。リアルな声を伺たく、今回再びコラボをお願いしました。
8年ぶりにオンライン越しでお会いする岡本さんは変わりなくお元気そうで、再会がとても嬉しかったです。こうやって喜べるのも、生きているからこそ。誰かが生きたかった今日を、あなたは、どう生きるでしょうか。

・桜ライン311 ホームページはこちらから

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【2024/3/11~17の1週間限定販売】
“Plant the future(未来を植える)”というメッセージの周りに、桜を描きました。
満開の花だけでなく、蕾や五分咲き、散っている花もあわせて描くことで、移ろいゆく時の流れを表現しました。かなしさや儚さを超えて息吹く、新たな生命を表現しています。

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