CHARITY FOR

3月21日は「世界ダウン症の日」!今年の標語は”End The Stereotypes(思いこみを 想いなおそう。)”〜公益財団法人日本ダウン症協会

今年も、3月21日「世界ダウン症の日」が近づいてきました!
この日に向けて、今年も各地で、ダウン症に関するさまざまなイベントが開催されます。
日本ダウン症協会さんとのコラボも、今年で9回目となりました。

今年の「世界ダウン症の日」の標語は”End The Stereotypes(思いこみを 想いなおそう。)”

今回のコラボデザインは、標語にあわせて「21トリソミー」を表現する「23の対のうち、ひとつだけ3つあるシリーズ」も、ステレオタイプを取っ払って、例年とは少し異なる遊び心をプラス!
同じモチーフを23描くのではなく、これまでの啓発ポスターや過去の「3つあるシリーズ」からもモチーフを持ってきて、ダウン症のある人たちの日々の楽しさを連想する、23の彩りを描きました!

思いこみを取り払い、ダウン症のある人が楽しく、いきいきと輝ける社会をつくりたい。
2024年の啓発ポスターのモデルに選ばれた、長野県在住の清水一哉(しみず・かずや)さん(18)は、さまざまなことに挑戦する高校生です。

この4月からは、社会人として新たなスタートを切る一哉さん。一哉さんとお母さまの明美(あけみ)さん、そして今回、ポスターの撮影を担当した、ダウン症のあるカメラマンの川田(かわだ)たいしさん(42)のお母さまの敬子(けいこ)さんに、お話を聞きました。

「世界ダウン症の日」に向けて。
私たちの中にある「思いこみ」を、想いなおしてみませんか。

2月12日に開催された「世界ダウン症の日 JDSキックオフイベント2024」にて。写真前列左から、清水明美さん、一哉さん、川田たいしさん、敬子さん。一哉さんの後ろにいるのが日本ダウン症協会の水戸川さん、その左隣は、2021年のコラボではお話を聞かせていただいた、アナウンサーの笠井さん

今週のチャリティー

公益財団法人日本ダウン症協会(JDS)

1995年に発足した、ダウン症のある人たちとその家族、支援者で作る会員組織。
ダウン症の啓発や情報提供を行い、ダウン症のある人たちとその家族のより良い暮らしを目指して活動しています。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2024/02/19

「いろんなことにチャレンジしています」。
18歳の一哉さん

最初にお話を聞いた一哉さんと、お母さまの明美さん。
一哉さんは長野県の養護学校に通う3年生で、この4月からは社会人になるそうです。

清水一哉さんと、お母さまの明美さん

──一哉さん、明美さん、よろしくお願いします。一哉さんはいろんなことをされているんですね!

一哉さん:
はい。ボッチャ、ダンス、演劇もします。いろいろやってみたくて、いろんなことにチャレンジしています。

──いちばん楽しいのは何ですか?

一哉さん:
学校が楽しいです。いろいろあるんだけど、友達と先生と話したり、委員会のお仕事をしました。

運動が大好きな一哉さん。2023年10月には、鹿児島で開催された全国障害者スポーツ大会に、陸上の50m、200m選手として出場。同じ長野県の選手の皆さんと

──どんな委員会ですか?

一哉さん:
最近では、選挙委員会の管理委員をやりました。
図書委員会は、委員長として来年の一言もみんなの前で発表しました。

──図書委員会もされてるんですね!

明美さん:
本の整理や、図書室の季節ごとの壁紙づくりをやっています。ほかにも体育委員長をしたり、先生のお手伝いをしたり。学校の作業学習で陶芸をやっていて、販売に向けて制作しているのですが、その作業班の班長もやらせてもらっています。

大好きな養護学校の先生と

──リーダーシップがあるんですね!

一哉さん:
まぁまぁまぁまぁ(笑)。

──清掃技能検定も持っているそうですね。

一哉さん:
このあいだはスクイージー(窓清掃)検定をやったんだけど、2級になりました。テーブル拭き1級、自在ぼうき2級も持っています。

養護学校卒業後の活動の一つとして、明美さんが同じ学校の仲間たちとともに立ち上げた演劇サークル「煌(きらめき)」。他の団体と一緒に演劇「嵐のあとで」を披露。「大勢のお客さまにダンスや演劇を見てもらい、幸せでした」

「一哉が楽しかったと思える人生を送らせてあげたい」

幼い頃の一哉さん。「見るもの全てが怖いようでした。今では考えられないです。私から離れられなく大変でしたが、いろんな場所へ連れて行き、いろんなことを見せました。今では好奇心旺盛です。一哉の笑顔が、いちばんの幸せです。一哉が楽しく生き生きとした人生を過ごせますように」

──多彩ですね!明美さんはどんなふうに見守っていらっしゃるのですか。

明美さん:
本人はどれも大好きで、楽しそうにやっています。
本当に頑張り屋さんで、とっても不器用なんだけど、一生懸命こつこつやって、いろいろと覚えていく。自分で一生懸命やって、できた時にはすごく喜んでいます。褒められるのも好きなんだけど、できなかったことができるようになった時の達成感が好きなようで、やる前から「できない」って決めつけるのは嫌みたいですね。

地元の福祉団体の発表会にて、ダンスを踊る一哉さん。「元気の出る、皆も一緒に踊りたくなるようなアップテンポな曲や振りから、落ち着いたしっとりした曲まで、さまざまなダンスをします。『アメージンググレース』という曲を一哉が踊った時、涙を流してくださるお客様がたくさんいました」

──明美さんとしても、いろんなことに触れてほしいと意識されてきたんでしょうか。

明美さん:
そうですね。
一哉が生まれた当時は、彼がダウン症で生まれてきたことを、私に原因があるじゃないけど、「ちゃんと産んであげられなかった」と自分を責めることが多かったんです。その後いろんなことがあったし、いろんな過程を経て、「一哉が楽しかったと思える人生を送らせてあげたい」と決めて、常にそれを心がけてきました。

自宅で一哉さんを産んだ明美さん。「パパがへその緒を切りました。かわいくて、この子のためなら何でもできると思いました。今でも同じ気持ちです」

明美さん:
そのためには、一哉自身もそうだけど、家族である私たちも一緒に笑っていないと、一哉も楽しめないんじゃないかと。それで、前向きにいろんなところに連れて行って、一緒に楽しめたらいいなとやってきました。

小さい時はものすごくかわいくて、顔を見るだけで笑顔になれたし、いやなことが吹き飛びました。成長の過程で、不安が全くなかったわけではありませんが、ちょっとでも成長があるとそれがすごい嬉しくて、不安よりもそちらの方が優ったし、何かちょっとでもできたら、すごく褒めるようにしていました。

──そうだったんですね。

演劇サークル「煌」にて、演目「かたおもい」の公演終了後に、仲間の皆さんと

明美さん:
今はちょうど思春期で、難しいところもあるけれど、根はとっても優しくて、周りの人が怒られていたり悲しくて泣いていたりすると、一緒に涙ぐんだり、肩を撫でたりしています。彼のそういう姿を見て、「私もこういう穏やかな人間になりたい」と思います。

──やさしいんですね。

一哉さん:
やさしくしようとは思ってないんだけど、先生とか友達、みんながやさしいです。なんていうのかわからないんだけど、友達と一緒にいると楽しい。うれしくなる。

特別なニーズがある若者の、ユニークで美しい才能を発揮するビューティーコンテスト「スペシャル・ビューティー・ジャパン」に出場。「インタビューでは緊張して、珍しく話したいことが話せず。コンテストの間、ペアになって伴走してくれたバディのまぬさんが、お別れの際、挨拶の代わりに笑顔でハグをしてくれました。一哉はすごく嬉しそうでした」

「ダメと最初から決めつけず、
可能性を引き出してあげられたら」

ボッチャをプレーする一哉さん。ボッチャの緊張感が好きなのだそう。長野県障害者福祉センター主催のスクエアボッチャ大会では、優勝!ボールがボールの上に乗る「ライジング」という技を出し、会場が沸いたそう。今回の「3つあるシリーズ」は、ポスターモデルとしてボッチャをプレーしている一哉さんにちなみ、ボッチャのアイテムを「3つ」描きました!

──4月からは社会人になられるんですね。楽しみにしていることはありますか?

一哉さん:
お仕事が好きってことはないんだけど、楽しみをこれから見つけられたらいいな。

明美さん:
手厚いサポートをしてくださる学校とはまた違うので、不安はありました。でも、仕事の実習を重ねていくうちに、それも減ってきました。何か困ったことがあった時に、家族以外の誰かに「困っている」ということを伝えられるようになれば。そこに慣れてくれたらいいなと思うし、就労先にも、またそれ以外にも、仲良くなって、気にかけてくださる方ができたらいいなと思います。

トラクターに座り、笑顔の一哉さん。「畑や田んぼのお手伝いも楽しいよ」

──一哉さんは、毎日「楽しい」っておっしゃるそうですね。

一哉さん:
「楽しい」って言ってるんだけども、なんて言うんですかね…。心配とか不安とかがママにもあるんだけど、僕が伝える力があると思って、楽しいと伝えると、ママも安心するから。

──やさしい…。明美さんにとって、一哉さんはどんな存在ですか?

明美さん:
命より大切というか、一哉が生まれてこなかった人生は考えられないぐらいの存在です。悩むこと、不安なこともたくさんありましたが、一哉が生まれてきてくれて、本当によかったと思っています。
まだまだ未熟ですが、一哉が生まれてきてくれたことで、知れたこと、成長できたことがたくさんあるし、何より今がすごく楽しい。一哉なしでは、こんな楽しさはなかったんだろうなと思います。

皆が振り向く、一哉さんの笑顔。手にしているのは、自作の油絵。「本人は、アニメ『鬼滅の刃』の炭治郎の気持ちで描いたと言っていました。この笑顔が、ずっと続きますように」

──2024年の世界ダウン症の日のテーマは”End The Stereotypes(思いこみを 想いなおそう)”にあわせて、読者の方たちに向けて、メッセージをいただけませんか。

明美さん:
私が思っているだけで、うまく言葉が見つかりませんが…、可能性をすごくたくさん持っている子たちだと思います。だからダメだと最初から決めつけずに、可能性を引き出してあげることができたら、いちばんいいなと思います。

先日開催された「世界ダウン症の日 JDSキックオフイベント2024」にて、壇上に上がり、ポスター撮影について語る一哉さん(写真右から3人め)と、カメラマンのたいしさん(写真右から4人め)

「おもちゃのカメラで夕陽を撮り始めた」。
カメラマンの川田たいしさん

一哉さんを撮影した、カメラマンの川田たいしさん(42)のお母さまの敬子さんにもお話を聞きました。
インタビューをさせていただいたのは土曜日の夜、たいしさんは隣で筋トレ中。ほぼ毎日、体力づくりのためにトレーニングをされているそうです。

川田たいしさんと、お母さまの敬子さん。たいしさんの写真展にて

「たいしさんがカメラを手にしたのは、10歳の時」とのことだったのですが、なんと今回、お写真の掲載にあたって、敬子さんが過去の写真を探していると、小学校の入学式の写真で、すでにカメラを手にしているたいしさんを見つけたそうです。

小学校の入学式にて。生徒のいちばん右、カメラを手に座っているのがたいしさん

敬子さん:
たいしの下の子の学校の関係で毎年ハワイへ行っていたのですが、日本では恥ずかしがり屋でモジモジしているのに、ハワイではいきいきとしているたいしの姿を見て、「いっそのこと、ハワイに行っちゃえ!」と、二人の子どもを連れ、学生ビザを取ってハワイに移住しました。

言葉の壁を心配していましたが、たいし自身は全く元気!彼は地球語をしゃべっているから、全然大丈夫なんです。ビザが切れるまでの5年近く、先生にも恵まれて、のびのびと良い環境で育ててもらいました。

「ハワイで、初めてサマースクールに参加した時の写真です。校長先生から写真をいただき、それを見て感動しました。真っ青な空や海、美しい浜辺…ハワイの自然の中、ノーパンでニコニコ笑顔で大の字にになっているたいしの姿。初めての場所や知らない人の前でも、こんなこともできるんだ!とたいしの未知の可能性を知らされました」

敬子さん:
その時に、日本のおばあちゃんに頼んで、本だったり食品だったり、いろいろなものをハワイへ送ってもらっていたのですが、ある時、たいしに「今度どんなものを送ってもらいたい?」と尋ねたら「カメラ」と言ったんです。雑誌に、アニメ「セーラームーン」の絵がついたカメラの広告が載っていて、「それがほしい」と。

それが最初だったと思ったのですが、実はハワイに来る前、小学校1年生の時にクラスの記録係をしていて、カメラで写真を撮っていたと、後になってから知りました。

──そうだったんですね。

敬子さん:
ハワイでは海の目の前に住んでいて、毎日、夕陽が沈むのを眺めながら「今日の夕日は赤いね」とか「今日は黒いね」というんですね。カメラを手に入れてからは、毎日夕陽を写真に収めるようになりました。

たいしさんがハワイで撮り始めた夕日。「当時、夕日が窓から沈むのを、毎日窓から撮っていました。今は高所恐怖症ですが、当時は23階からでも友人の部屋がある40階からでも、平気で窓の近くで撮影していました」

敬子さん:
たくさん撮るので、とにかくものすごい量で。ある時、現像した写真を友人に見せたら「すごくおもしろい写真がいっぱいあるから、一度、専門の先生に見てもらったら?」と。それで、写真家の先生に見ていただいたら「どんなカメラで撮っとるの?」って。子どものおもちゃのカメラだというと「もったいないから、ぜひ良いのを買ってあげて」と言われて、キャノンの一眼レフを買いました。

それでまた毎日、写真を撮って撮って、撮り溜まったものを先生に見てもらったら、「すごくおもしろいし、きれいな写真があるから、一度写真展をやったら?」と提案していただいて。1995年に初めて、写真展を開催しました。

1995年、ハワイで初開催した写真展にて。「写真展の会場には、海に近い船着き場にあるアロハタワーというところの画廊をお借りできることになりました。大小の写真パネルを合わせて25点くらいだったと思います。友人がハワイのラジオ局でアナウンサーをしており、幸運にもたいしの写真展を番組で紹介してあげるからということで、たいしと番組に出させてもらうこともできて、結構多くの方が来てくださいました。たいしと二人で写真展の会場にいると、いろいろな方が見に来てくださり、小さいダウン症のある子のお母さんも来てくださって、お友達になれました。重度の心臓疾患だったため、後にお亡くなりになったとお聞きして悲しかったです」

「よく撮ろうという欲がない、
そんな彼が撮る写真だから良いのかもしれない」

ウミガメを撮影するたいしさん。「アリの巣、鳩、ヤシの木、海、花などを撮影します。まだ自信がなかった頃は、人物は緊張するので、望遠で隠し撮りでした(笑)」

敬子さん:
するとその写真展で、突然、「この写真はいくらですか?」と聞かれて。「100ドルでも買うよ」っていう方が現れたんです。親の欲かもしれませんが、カメラを続けていけば、もしかしたら仕事にもつながるかもしれない、道が開けていくかもしれないと思いました。

写真展の後に帰国し、日本でも写真を撮り続けていました。当時はネガなので、とにかく膨大な量が溜まりに溜まり、すべてとっておくわけにもいかないので、やはり先生を紹介してもらい、たいしの写真を見ていただけるようになりました。そうやって写真を整理していると「二科展に出してみたら?」という話になり、出したら、入選したんです。

──すごいですね。才能があられたんですね。

「ハワイから帰国後、竹の写真で有名な写真家の高間新治先生に出会い、写真展の展示写真を選んでもらううちに、二科展にも出品してみたらとお声がけしてもらい、初めて出品した作品が入選しました。タイトルは『宝の山』。先生によると『たいし君らしい!おもしろい!たいし君にしたら、ジュース缶の山はお宝だ!』とのことで『宝の山』というタイトルをつけてくださいました」

敬子さん:
いえ、本当に何百枚と撮ったうちの1枚なんです。見る人によって、ここが良くないとかっていうことがあるかもしれませんが、本人は「かっこよく撮ろう」とか「よく見せよう」という欲が全くなくて、そんなたいしが撮る写真だからこそ良いということだったのかもしれません。

──そんなにたくさん撮られていたんですね。

敬子さん:
当時はもう、呼吸するように撮影していました。自転車の前カゴにカメラを入れて出かけていくんですが、いたずらでカメラ自体やカメラの部品を取られたり、いろんなことがありました。親として、やめさせた方がいいんじゃないかと思ったこともありましたが、本人が好きでやっているのなら、それは止めちゃいけないなと思いました。今となっては、それでよかったと思っています。

2006年に開催した写真展の案内。写真家の高間新治さんによる「天使の如く無心で天衣無縫のカメラワーク」との応援のコメント

敬子さん:
ただ、二科展で入選して、親の欲みたいなものが出てきちゃって。「たいしはカメラを続けていくといいんだな、どんどん撮っていけばいいんだな」っていう。でもその途端に、たいしは写真を撮らなくなりました。「なんで撮らないの?」と聞いたら、「日本はグレーだから、撮らない」とまた、キザなことを言うのね(笑)。

じゃあもういっぺん、ハワイに行って撮ろうかということで、ハワイを訪れては写真を撮り、写真展開催や二科展への出品を目標にするというかたちでやってきました。

──そうなんですね。

敬子さん:
とはいえ、コロナの間はもうずっと写真を撮らなかったし、それも本人の自由に任せていました。特に深い意味はなくて、本人がやりたいなら続ければいいし、やりたくないならやめればいいしと。気楽な感じでいました。

何年も写真撮影にも出かけておらず、2023年に久しぶりに写真展を開催したら、会場がカメラ屋さんがやっているギャラリーだったのですが、各社のカメラのパンフレットが置いてあり、それをちゃっかり持ち帰ってしっかりチェックしていて(笑)、白いカメラを新調しました。
他にも気になるカメラがあるようで、一眼レフの望遠の良いのが欲しいみたいです。今回、水戸川さんにポスターの撮影のお話をもらって、「新しいカメラを買ってくれ」とか言うし、本人はこれからまた、撮る気でいるみたいですね(笑)。

「賞をもらう時は恥ずかしそうですが、とても嬉しくて喜びます。もっと良いのを買えと要求しても怒られないで買ってもらえることが分かっているので(笑)。写真展を始めた頃は、少しもじっとして会場にいられなかったのですが、もう何十回と開催するうちに、来てくださるお客さまにもご挨拶ができるようになりました。そんな姿を見て『ああ、大人になったのだ』と実感します」

「心配しなくてもいいよ」。
写真展開催を通じて、敬子さんが伝えたいこと

あちこちで撮影するたいしさん。「そのうち、カメラを持たずに出かけるようになりました。いじめられたり、からかわれたりするのが嫌だったのだと思います。本人のルーティンで、雨や雪の日も、凍りつくような寒い日も、自転車で出かけています。カメラ無しで出かけて行き、自分の撮りたいものがあった時は大慌てでカメラを取りに自宅に戻り、また走って出ていきます。『どんなのが撮れたの?』と聞くと、ニヤニヤしながら見せてくれることも(笑)」

──長い間写真を撮らなかったけれど、2023年に久しぶりに写真展を開催されたのはなぜですか?

敬子さん:
写真展は毎年開催していたのですが、コロナで会場自体がクローズしていたのもあって、3、4年、開催していませんでした。最後の開催の後に撮ったものが溜まってきて、「いつか発表できたらいいな」と思っていた時に、会場から再開したと連絡をもらって。それでやろうということになりました。

開催の理由はもう一つあって、毎年の写真展を楽しみにしてくださっていたダウン症のある仲間たちがいるので、ぜひここからまた、続けたいなと思って。

──そうだったんですね。

敬子さん:
ありがたいことに新聞にも写真展のことを載せていただくのですが、小さな赤ちゃんを抱いて、泣いて来られるお母さんもいてね。その姿を見て「私も、こうだったな」と思ってね。
そんな方たちに少しでも、「心配しなくてもいいよ。こんなふうに幸せになるよ」っていうメッセージが届けば嬉しいなと思っています。

敬子さんの思い出深い一枚。「ハワイでハーゲンダッツのアイスを買って、二人で食べている写真です。たいしが私の髪の毛を二つに束ねてくれて、大好きなアイスをたいしが注文して、『写真撮って』とお願いし、撮ってもらいました」

──たいしさんが生まれた時のことを聞かせてください。

敬子さん:
42年前、たいしが生まれて、ダウン症とわかった時はすごくショックでした。それでも相談する場所もないし、今のようにインターネットもなくて、どうやって育てていけばいいのかわからず不安でした。障がいが受け入れられなくて、出来の悪い母親ね、何度も「育てられない」と思ったし、殺そうと思いました。

──どんなふうに変わっていかれたんですか。

敬子さん:
きっかけは覚えてないんだけど、「こんなことしていたらダメだ」ってふと思って…そうだね、やっぱり子どもに育てられた。たいしに育てられたんでしょうね。

こんな親の元に生まれたたいしのことが、かわいそうになってきたのかな。それもあったと思います。
よく考えてみると、2歳違いで生まれた弟の方に手がかかり、たいしのことより下の子の世話に追われる毎日でした。下の子を抱いている時、ふと見ると、私の斜め横前にちょこんと正座してテレビを見ているたいしの姿…、そんな姿を見て、いろいろな感情があふれてきました。
 
もっと構ってほしいのに言えなくて我慢しているんだろうとか、きっと淋しい思いをしているんだろう、まだまだ自分も赤ちゃんでいたいんだろうな、愛されているんだろうかと思ってるんじゃないか…。そんなことを思うと、たいしがかわいそうで、本当に申し訳ない気持ちになって、涙があふれてきたことを思い出します。たいしが何か悪いわけでもないのに、いつまでも受け入れられない、本当にダメな親でした。

「日本ではモジモジして頑固ちゃんで、なかなか動かないので『お地蔵さん』とあだ名をつけていたたいしが、ハワイでは殻を破り、モジモジすることもなく、クラスメイトの車イスを押したり、アルファベットを数日で覚えてパソコンに入力したり、マクドナルドやハーゲンダッツで自分できちんとオーダーしている姿に感動しました。本当にビックリしました」

「たいちゃんはたいちゃん。
今のまま、ありのままで」

愛犬「チビ太」と

──今、敬子さんにとってたいしさんはどんな存在ですか。

敬子さん:
本当におもしろい、変わった子なのね。レディーの心を持ち合わせていて、ある時は男の子、ある時は女の子の心で、お化粧をしたり、スカーフをつけたり、私のハイヒールを履くこともあります。

ハワイから帰国した後、日本の中学校に入る時に学生服を嫌がって、「セーラー服だったら行く」と言って。学校にも聞いたのですが、ダメと言われて。それだったらしょうがないねと、学校にはほとんどいきませんでした。
染色体が1本多いわけで、女性と男性の両方であったとしても、そのことに特別驚くということはありませんでした。

たいちゃんはたいちゃんだから、そのまんま、ありのままでいいと思うのね。

最近、少し老けた彼を見て「おじさんになったね」って言ったら、「おじさんじゃない、おばさんだわ!」って言うんです(笑)。おじさんの心の時もあるし、おばさんの心の時もあるし、いずれにしても今のまま、ありのままで、本人が楽しければいいなと思う。ただただ、それに尽きますね。

いろんな格好をするのも好きなたいしさん。「ハワイで変身写真を撮った時は、とても嬉しそうに撮影していました。現在通っているB型作業所でも、たまにワンピースで通っています」

──読者の方にメッセージをお願いします。

敬子さん:
42年前、たいしを産んだ時には想像しなかった、幸せな今があります。
だから、心配しないで。「大事に育ててあげる」ということだけで、本当に良いんじゃないかなあと思います。それは、障がいがあってもなくても同じこと。

ダウン症のある人はゆっくりと育つかもしれないけれど、決して不幸ではないし、楽しい。「楽しい時間が長い」と思えたら、良いんじゃないかな。たいしが小さい時は、私もそんな余裕はなかったけれど…、今、振り返ってそう思います。

こちらにカメラを向けるたいしさん。「はい、ポーズ!」

アイテム購入ごとのチャリティーは、ダウン症啓発のために活用されます!

啓発ポスターの撮影風景。ボッチャをプレーする一哉さん(写真右から二人め)を撮影するたいしさん(写真左端)。「撮影時が初対面だった二人。最初はとても照れていましたが、終わり頃には笑顔もたくさん出ていました」。ポスターの撮影の様子はメイキング動画(→クリックでご覧いただけます)からご覧いただけます

ダウン症のある人の、幸せな暮らしを維持していくために。
日本ダウン症協会では毎年、啓発ポスターを制作し、希望の方には無料で配布しています。

今回のチャリティーアイテムをご購入いただくと、1点ごとに700円(キッズアイテムと雑貨は100円も選べます)が日本ダウン症協会さんへとチャリティーされ、啓発ポスターの制作費・印刷費、ポスターを希望された方に届けるための配送料、メイキング動画の制作費、世界ダウン症の日・世界ダウン症会議内の発表といった、ダウン症の啓発のために使用されます。

思いこみを想いなおし、誰もが豊かに生きる社会を築いていくために。
ぜひ、応援してくださいね!

「世界ダウン症の日 JDSキックオフイベント2024」にて、参加者の皆さんの集合写真。今年の「世界ダウン症の日」も、皆で一緒に盛り上げましょう!

・世界ダウン症の日2024 特設サイトはこちらから 
・日本ダウン症協会 ホームページはこちらから

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【2024/2/19~25の1週間限定販売】
恒例の「3つあるシリーズ」。
今回は、好きなものや好きなこと、得意なこと、毎日見るものやいつかやってみたいこと‥、ダウン症のある人たちが生涯を通して、豊かで健やかに、いきいきと輝きながら生きてほしいとの願いを込めて、23の異なるモチーフを描きました。
「3つある」のは、ポスターの中で一哉さんがプレイしているボッチャ!たいしさんのカメラもありますよ。

皆さんの「好き」も、ぜひ見つけてくださいね!

チャリティーアイテム一覧はこちら!

JAMMINは毎週週替わりで様々な団体とコラボしたオリジナルデザインアイテムを販売、1点売り上げるごとに700円をその団体へとチャリティーしています。
今週コラボ中のアイテムはこちらから、過去のコラボ団体一覧はこちらからご覧いただけます!

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(広告宣伝費として支援し、予算に達し次第終了となります。)