CHARITY FOR

「みんな、ここに帰っておいでよ」。元従軍慰安婦だった女性は、空に向かって叫んだ。搾取される人生ではなく、自ら選べる人生を〜かにた婦人の村

千葉の館山にある婦人保護施設「かにた婦人の村」。
虐待や性被害、DVに遭った女性が、自然の中で傷を癒しながら、自らの力を回復していく場所として、現在は21歳から90歳まで、43名が暮らしています。

かにた婦人の村ができたのは1965年。
設立者で牧師だった深津文雄さんは、戦後間もない当時、知的や精神的な障害があったり、家族の問題、貧困や疾病などを抱えた女性の行き場がないことを目の当たりにします。元従軍慰安婦だった女性と出会い、居場所のない女性たちが終生穏やかに過ごせる場所として、かにた婦人の村を設立しました。

現在は、心身に傷を負った女性たちが「自立を目指す場所」として、設立当時から変わらない「寄り添い」を大切に、支援を続けています。

「つながり続けること。本人の意思を尊重し、つながり続ける関係性を築くことが大切」。

そう話すのは、施設長の五十嵐逸美(いがらし・いつみ)さん(62)。
活動について、お話を聞きました。

お話をお伺いした五十嵐さん。1987年4月から4年間かにた婦人の村に勤め、2006年3月まで北海道で酪農業を営んだ後、かにたに再就職。2013年から施設長を務めている

今週のチャリティー

ベテスダ奉仕女母の家 かにた婦人の村

1965年の開設以来、売春防止法で規定される要保護女子(自活困難な状況にあり、転落の恐れがある女性)の中でも、知的障害・精神障害を抱え、長期の保護による生活支援を必要とする女性を、全国から受け入れ、支援しています。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2023/08/21

1965年より自活が
極めて困難な女性を受け入れ、支援

かにた婦人の村の外観。千葉・館山の豊かな自然に囲まれている

──今日はよろしくお願いします。最初に、どのような施設かを教えてください。

五十嵐:
すぐには自立が難しい女性が入居し、自立を目指していく場所です。
かにた婦人の村は1965年の設立以降、知的障害や精神障害があり、さらに家族からのサポートがないなど、自活が極めて困難な女性をのべ200名受け入れてきました。

──そうなんですね。

五十嵐:
千葉の館山という非常に自然環境の良い場所の、のどかな丘の上に立地していて、緑がたくさんあって、心身に傷を負った人たちが、ゆっくりと自然に触れながら回復していける環境があります。

11ヘクタール、東京ドームで換算すると2.3個分ほどの森を切り拓いたつくりで、6つの居住棟と高齢者が生活する高齢者棟に、現在21歳から90歳までの43名が生活しています。
そのほかにも食堂棟、入浴棟、集会棟、管理棟、作業棟などたくさんの建物があり、日中活動として、陶芸、手芸、農園、食事づくりや配膳の補助、パン作りなどをしています。

敷地内では、夏には甘夏、冬にはみかんも採れる。写真は収穫した甘夏。「元々、木のオーナーになってくれた方たちに対し、山の上の土地を購入するために、『実が生ったら、20年間無料で送ります』という約束で、お一人さま10万円を300名の方からお借りしました。約束を果たし終えた後も『無農薬のみかんを、引き続き買ってでも食べたい』というリクエストが多かったので、ご希望の方には送料無料で3,000円(大箱)と1,500円(中箱)で頒布しています」

「本人たちが生きがいを感じられる場所でありたい」

食堂で、皆で朝食をとる。写真は、イースター(復活祭)の朝食の様子

──どのような方が入居しているのですか。

五十嵐:
かにた婦人の村の入所要項には「精神・知的な障害があって、自立が難しくなっている人」というふうに書かれていますが、近年はDVや虐待を受けた方の入居も増えてきました。

かにた婦人の村ができた当時は、「行き場のない女性が亡くなるまでを過ごせる場」という前提でスタートしました。現在、施設にご高齢の方たちがいるのはこのためです。

近年は、時代の流れもあって、亡くなるまでを過ごす場所ではなく、ここで自立を目指し、地域で暮らしていくことを目標にしています。施設の滞在には特に期限があるわけではありませんが、若い方は、長くても5年ぐらいで施設から出られるようにしてあげたいという思いがあります。…若い時の5年というのは、貴重な時間ですから。

建物の中の様子。「開設当時に入所される女性は家庭生活に恵まれずに育った方が多かったので、皆が肩を寄せ合い顔を合わせて、お互いに助け合って生活し、家族のように親しくなって欲しいという願いから、個のスペースよりも共有スペースを広くとった造りになっています。現在は建て替え工事が進行中で、この寮で過ごす時間も残り少なくなってきました。今度の建物は完全個室でプライバシーを保証しつつ、誰もが集える共有スペースを広くとる予定です」

──入所している方たちは、かにたの村でどのような生活をされているのですか。

五十嵐:
1965年の設立当初から、設立者であり牧師の深津文雄には「ただ収容するのではなく、本人たちが生きがいを感じられる場所でありたい」という思いがあって、敷地内に陶芸や手芸、製パンなどの作業場、農園や牛舎などをつくり、互いに役に立っているという実感が得られるコロニー(集落)を目指しました。

現在も、入所者の日々の暮らしに必要なものを、それぞれが日中活動としてシェアしています。

手芸部の皆さん。「レース編みのような高度な技術が必要な作品を作る方も、四角いものがなんとなく編めるというレベルの方もいます。そんな場合はスタッフが、その四角をはぎ合わせ、裏地を付けてポーチにしたりして作品に仕上げ、バザーで販売します。若い女性がミサンガを作っていたこともありました。残念ながら昨年夏にガンで亡くなった40代の女性が毎日せっせと編み続けた動物シリーズのアクリルたわしが好評で、見学に来た際に購入してくださるお客様が多く、彼女にとって、編み物製作が毎日の暮らしの大きな励みになっていました。天国でも編んでいるんじゃないかなぁ」

元従軍慰安婦だった城田さんとの出会い

かにた婦人の村を設立した、牧師の深津文雄さん

──かにた婦人の村ができた経緯や時代的な背景を、もう少し詳しく教えてください。

五十嵐:
戦前、戦中、戦後しばらく経っても、知的障害のある人が地域で暮らしていくためのインフラは整っていませんでした。障害に対する差別や偏見も強く、障害のある家族を隠したいとか、家に置いておくのがはばかられるような時代背景があったのです。

旧精神薄弱福祉法が制定されたのは1960年でしたが、当時は山のなかの大きな施設に集約的に保護することが主流で、現在のように地域にグループホームや就労支援事業所が充実するのは、障害者総合支援法が制定された、2012年以降です。

戦前の明治憲法下の日本には公娼制度があり、管理売春が合法化されていました。お上に登録することで、女性に売春させることを生業とすることが許されていました。そういう場所で、貧しい地方の農家の娘さんが借金を背負わされて働かされたり、親を亡くして孤児となった女児が引き取られて、体が成熟すると働かされるということが多かったのです。

──そうなんですね。

五十嵐:
明治の終わりから大正時代にかけて、キリスト教信者による「廃娼運動」が起こり、このような女性たちの解放運動や救済活動が盛んになりましたが、日本の軍事化と軍の慰安所運営への売春業者の利用が進む中で、このような救済活動はできなくなりました。
敗戦後、連合国が日本を占領した時に、「人権」を中心においた現在の「日本国憲法」が公布され、女性に普通選挙権が初めて与えられ、女性の国会議員が多数誕生したことで、再び「廃娼運動」の流れが復活し、昭和31年の「売春防止法」制定に結実しました。

その2年後、深津牧師は東京都内に婦人保護施設「いずみ寮」を開設し、生活に困難を抱える女性を受け入れました。その時に集まってきた多くの女性たちの背景に、貧困や障害、疾病、家族の問題があることを目の当たりにしたのです。

食堂から見える、館山の美しい大自然

五十嵐:
婦人保護施設は、売春で生計を立てている女性、売春を行うおそれのある女性を収容保護し、職業や生活訓練をして「社会復帰」させるという趣旨で作られた施設であり、能力のある人たちはそれぞれ地域に出ていくことができました。
しかし入所が長期化し、行き先のない人たちも一定割合いて、そういう人たちは家に帰ることもできない。深津牧師は、彼女たちが安心してい暮らせる居場所の必要性を強く感じたようです。

──そうだったんですね。

五十嵐:
深津牧師がいずみ寮を始めるきっかけになったのは、後にいずみ寮に入寮することになる、元従軍慰安婦の城田すず子さんという女性との出会いでした。城田さんは、繁盛していたパン屋の長女でした。暮らしに困ることはありませんでしたが、14歳で母親が亡くなり、父親が博打で作った借金の形に売られてしまうのです。時代が戦争へと向かっていく中で、従軍慰安婦として各地の慰安所を転々とします。

その時の様子を、とにかく兵隊さん何十人の相手をさせられて、あまりにひどかったと彼女は後に回想しています。
耐えられなくなった彼女は、出会った男性に「結婚してあげる」と嘘をつき、金を借りて何とか慰安所から出るのですが、本当に結婚する気はないので逃げ回り、とうとう相手から裁判を起こされてしまいます。借りた金を返すためには、同じ世界に戻るより他に道はありませんでした。

かにた婦人の村が設立されるきっかけとなった、元従軍慰安婦の城田すず子さん

五十嵐:
戦局が悪化する中、激戦地となったパラオの慰安所に「どうせ死ぬならお国のために」と自ら志願して渡航した城田さんは、帳場係として若い慰安婦の管理や世話もしていたようです。島は大空襲に遭い、ジャングルを逃げ回り、命を落とした女性も大勢いました。

終戦後、命からがら帰国した城田さんが実家を訪ねると、父親には後妻がいて、「あんたみたいな汚い商売をしていた人は、家にあげられない」と追い出されてしまいます。行くあてを失った彼女は、全国の赤線(売春が行われていた地域)を転々としながら生活を続けます。そしてある時、妹が自死したことを知るのです。

「もしかしたら、私の商売のことで何かあったのではないか」。そう感じた彼女は「もうこの世界から足を洗わなければならない」と思い、たまたま週刊誌で都内で婦人保護活動をしていたキリスト教系の施設の記事を見つけます。深津と出会い、その後いずみ寮、そしてかにたの村へ入所することになるのです。

かにたの日常の一コマ。日々のパンを焼く。「発酵器もパン焼き窯も業務用の大きな機械があり、この写真が撮られた1990年代から2000年代には、ほぼ毎日稼働していました。現在は、職員と入所者1名の二人体制でライ麦のパンを週2回焼いており、朝食で提供されます。以前は全粒粉で焼いた黒いパンも出していましたが、高齢の方が増えた今は、白いパンが中心です。リクエストに応えて、時々レーズンパンやくるみパンも焼かれます。皆さん、既成品のパンより『かにたのパン』が美味しいと話されます」

「みんな、ここに帰っておいでよ」

敷地内にある、従軍慰安婦の慰霊碑

──かにた婦人の村の敷地には、従軍慰安婦の慰霊碑があるそうですね。

五十嵐:
戦後40年を迎える1985年、さまざまなメディアが戦後特集をしていました。しかし城田さんは、従軍慰安婦の話題がひとつも出てこないことに、強い違和感と疑問を持ちます。

戦争という名のもとで性暴力に遭い、あんなに大変な、あんなにもひどくつらい思いをした女性たち、どこで命を落としたかもわからない女性たちがたくさんいるのに、それが歴史の中から消え去っていることは許せない。当事者として残せるものは残したいという気持ちで、深津牧師に「同僚たちのために、どうか慰霊塔を建ててほしい」と手紙を書きました。

その翌年、慰霊碑として「鎮魂」と墨書した檜の柱を立てました。さらに翌年の1987年には石碑を建てました。その除幕式で、城田さんは泣きながら「みんな、ここに帰っておいでよ」と叫びました。

8月15日、慰霊碑前での鎮魂祭の様子

五十嵐:
今でも毎年、終戦記念日である8月15日、夕方4時に慰霊碑に集まって、鎮魂祭を開催しています。このことが新聞、ラジオ、テレビで取り上げられたことがきっかけで、韓国で慰安婦にされた女性たちが告白し、戦中のアジア侵略における日本軍による性暴力が明らかにされました。

──城田さんの「ここに帰っておいでよ」という叫びには、どのような思いがあったのでしょうか。

五十嵐:
従軍慰安婦として最後にパラオにいた時、管理する立場として売春に加担していたという申し訳なさや後悔が、ずっとあったのではないでしょうか。

城田さんは脊椎カリエスを患って松葉杖で生活していましたが、売春のせいでそのような体になってしまったという悔しさもあったかもしれません。

毎年秋には、米を収穫。季節がやさしく、穏やかに流れてゆく

障害が見過ごされ、
子どもの時に、すでに搾取される現実がある

毎年開催される運動会にて、入所者さんと走る五十嵐さん(写真左)。「ゆっくりマラソンと称して、好きな距離を好きなペースで、順位をつけることなく走ってから、お昼のお弁当を皆で美味しく食べています」

──今年で戦後78年を迎えるわけですが、時代が変わっても、自分ではどうすることもできないような環境や背景から搾取され、傷つく女性がいるのですね。

五十嵐:
精神や知的障害があった場合に、自分で判断することが難しく、自ら被害に遭ってしまう、被害に遭いやすいということは、一つあるのではないかと思います。

もう一つには、近年核家族化が進み、地域のつながりが薄れていることも背景にあると感じています。
ひと昔前は地域の中に見知った関係性があって、何か危なさそうなことに巻き込まれそうな子がいたりちょっと変わったことがあったりしたら、他人の子どもであっても声をかけたり叱ったりするのは当たり前の習慣がありましたが、それも今は薄れています。

さらにSNSが発達し、匿名性の高いインターネットに出会いやつながり、情報を求め、なかなか家族や個人の問題が表面化しません。

──確かに。

畑で野菜を収穫。「『かにた農園』で収穫した野菜は、毎日の食事で調理されて提供されます。自給自足には程遠いのですが『自産自食』という感じで、自分たちで作った生産物を、暮らしの中でシェアしあうと楽しいよね、というあまりかた苦しくない共生の心が、農園に限らず『かにた文化』の根底に流れているように思います」

五十嵐:
親が仕事で精一杯で子どもに構ってあげられず、たまたまそういう子に、グレーゾーンやボーダーと呼ばれるような、パッと見ではわからない発達障害があった時に、それ自体が見落とされ、子どもの時からすでに、同じ子どもからいじめられたり搾取されたりということが起きていることもあります。

実際、かにたにかつて入所していた知的障害のある女性の中には、中学1年生の時に援助交際グループに入れられて、命令されて売春し、お金はすべて巻き上げられていたという方がいました。
また、反社団体の構成員だった父親から覚醒剤を打たれて、売春させられていたという知的障害女性のケースもありました。
母親を病気で亡くした後、仕事で忙しい父親だけでは監護できず、悪い交友関係の中で性風俗に取り込まれ、監禁されてタダ働きさせられていたケースも、知的障害の女性でした。

こういったケースは、地域の障害者支援サービスの枠組みでは抱えきれず、言わば「地域のお荷物」となってしまっているようで、女性相談の窓口を通して、婦人保護施設に入所相談が入ります。

また最近は、健常な女性が性被害や性暴力に遭ってしまったことをきっかけに、日常生活を自立して送ることが極めて困難になっているケースをしばしば目にします。
このような被害は、自己肯定感や自尊心を棄損し、自分を自分で傷つけるような行為(リストカット、万引き依存、過剰服薬)を止められないような状況に人を追い込みます。回復には医療的、心理的な専門ケアが必要で、時間もかかります。

毎年夏に開催される納涼祭にて、盆踊りを踊る入所者の皆さん。「8月はかにた夏祭り月間とし、いくつかの行事を行っています」

大自然の中、互いを認め合い、ちょうど良い距離感で
自尊心や自己肯定感を取り戻していく

納涼祭の「夜店」の様子。「『夜店』は、入所者さんたちがとても楽しみにしている行事です。職員全員が模擬店を広場に出店し、普段地域でお世話になっている、病院のお医者さん、看護師さん、作業所のスタッフさん、成年後見でお世話になっている司法書士さん、デイサービスのスタッフさん、ケアマネさん、社協のボランティアさん、草刈りを年2回手伝ってくれるNPOさんなどさまざまな方々をお迎えして、一緒に夏の一夜を楽しみます。地元のアマチュアシンガーさんやフラダンスグループのメンバーさんが歌とダンスで花を添え、隣接する地域の障がい者の就労継続支援施設『かにた作業所エマオ』の利用者さんやスタッフも出店し、賑やかで楽しい時間を過ごします」

──…みなさん、様々な困難さや生きづらさを抱えて行き場所がなくて、かにたにこられているんですね。
そのような背景を抱えた人を、どのように支援されるのですか。

五十嵐:
私たちは、彼女たちが安心して安全に生活できる場所を提供しています。

かにたには、季節で違う風の匂いや、土の香り、植物や作物の成長の様子、カエルの声、虫の音、蝉たちの合唱…、そういうことが日々感じられる豊かな自然があります。孤独でも依存でもない、ちょうど良い距離感での仲間たちとの協働による暮らしが体験できます。

ノルマや納期に追われない、自分立たちの暮らしに必要な作業をシェアする日中活動があり、それぞれの人ができることをできる範囲ですることをお互いに認め合ってきた、「かにた文化」があります。

このような生活の中で、人は自己肯定感や自尊心を取り戻し、やがて地域に戻って生活したい、生活できるはずだという、前向きな希望を持つようになります。その過程過程で、スタッフが相談にのり、実現を手伝い、達成感を共に味わい、地域生活への再チャレンジに向けて支援しています。

陶芸部の皆さんの作品。「知的障害が重く、どの作業も上手くできなかった入所者のために陶芸を始めたのは、創設者の深津牧師でした。粘土で好きなように遊んでもらっていると、最初はお団子を作り、次に長い蛇を作り、飽きるとその蛇を円状につないで、それを積み重ね始める。『縄文人もきっとこうやって器づくりを覚えたのではないか』と牧師は当時の広報誌に感想を綴っています。その後、陶芸担当の職員が何代か交代し、現在は市民大学講座で一年間焼き物を学んだ女性職員が指導を担当しています。器の形はすべて入所者さんが手で作り、色付けなどは主に女性職員が担当するコラボ作品です。大きな電気釜(購入費用を全額寄付してくれた方がいました)があり、作品が溜まると、釜入れをします。見学に来たお客さまにご購入いただいたり、バザーで販売したりしています」

五十嵐:
施設内作業で自信をつけた人は、地域の障害者就労継続支援事業所への通所を施設からして、充分に慣れたら、グループホームへの体験入所を数回やってみて、かにたを退所して地域に生活の場を移して行かれます。ここ10年、毎年一人がそのような支援を受けて地域に戻っていかれました。

お荷物扱いされていた地元に戻り、一般就労されている方もいますし、かにた婦人の村がある南房総地域に根をおろして、障害者グループホームから作業所に通っておられる方もいます。

同じ障害者同士で結婚して、ヘルパーなどの障害者サービスを上手に活用して、猫ちゃんと夫婦で仲良く暮らされている方、結婚されてこの夏二人目の赤ちゃんを産んだ方、自分たちでどうしても子どもを育てられなくて乳児院にお子さんを預けたけれど、毎月必ず両親での面会を欠かさない方…、それぞれが一生懸命に生きている様子が、ご本人さんたちとの交流を切らさないことで伝わってきております。

「陶芸や手芸の作品は、年4回、かにた婦人の村と『かにた作業所エマオ』が共催しているバザーにて、利用者さんが販売しています。将来的には、ネットで常時販売できるようにしたいと考えています」

──施設にいる時だけでなく、出てからの生活もしっかり支援されているんですね。

五十嵐:
その人の本当の自由な生活は施設を出てからはじまるわけで、そこを支えることがとても大事だと思っています。

過干渉にならないように、こちらから積極的に連絡をとるということはないですが、退所後もつながっていられる関係性を、施設にいるうちからしっかり築いておくこと。そうすれば、何かあった時に「こんな支援があるよ」といった話ができるからです。

頑張り屋さんの入所者のAさんが練習を重ね、地域のマラソン大会に出場した際の一枚

「かわいそうな人」や「弱い人」ではなく、
「力を必要としている人」

皆で花火。過去ではなく、今、そしてこれからを生きていく

──本人の意思を尊重し、支えるという姿勢は、設立時よりずっと変わらずにあるのだなと思いました。

五十嵐:
選べない人生を強要され、やりたくもないことをさせられたこと、従軍慰安婦はその象徴だと思います。「人生に選択肢があって、それを自分で選べたら良いよね」という、ごく当たり前のことを支えること。私たちは本人に選択肢をきちんと見てもらって、何かしら選んでもらって、そこに本人が挑戦していくということを支えたいと思っています。

──五十嵐さんのモチベーションは何でしょうか。

五十嵐:
生きづらさを抱えている人に対して、自分が手伝って少し良くなるならば、手伝ってあげたい。ただそれだけです。
あとは、人が好きなのかな。くたびれることも多いですが、楽しいこともたくさんある。一生懸命、ひたむきに頑張っている様子を見たり聞いたりした時は、応援することができて良かったと心から思います。

旅行先での一枚。「厳しい生育環境の中で、旅行になんて一度も行ったことがないという方も多いので、社会勉強や見学も兼ねて、毎年春と秋には、近隣の観光施設などに日帰りのバス旅行をしています。秋の旅行は隔年で一泊旅行とし、他県にも出かけます。東京では浅草寺にいったり、柴又の寅さん記念館に行ったり、スカイツリーに行ったりしました。写真は、江戸東京博物館での一コマです。さまざまな年代の人が、笑顔で一緒に、初めて見るもの、聞くものの新鮮さを楽しんでいます」

五十嵐:
彼女たちは「かわいそうな人」や「弱い人」ではありません。ただ、力を必要としている。自分ではどうしようもできない状況を、誰かがサポートすることで何か変わるなら、手伝ってあげたいという気持ちです。

過去は大変だったけど、犯人探しや原因探しからポジティブなことが生まれることは、そうありません。それよりも、精一杯生きて、今こうしてかにたにつながってくれて、これからどんな風に楽しく生きていくか、その道を一緒に考えていきたい。

挑戦に失敗はつきものです。1回や2回で決めつけないこと。相手を裁くことはとても簡単ですが、でも裁く前にやっておくこと、やれることが、たくさんあると思っています。

子どもたちとクッキー作り。「一緒にいる子どもたちは、この教室を企画した職員のお子さんです。この子たちは、市民マラソンのファミリーコースにエントリーした利用者さんを受け入れ、一緒に走ってくれました。自信をつけたその利用者さんは、翌年から何年間か、10キロコースを完走し、やがて地域に移られました。今では結婚し、同じ障害のご主人と仲良く生活されています」

チャリティーは、入所者さんの施設での暮らし、施設を出てからの暮らしのために活用されます!

クラウドファンディングで資金を集め、現在、施設の建て替えの真っ最中。写真は新棟の建設予定地

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

五十嵐:
お話してきたように、入所している方たちは、家族との関係が断絶していたり、障害があっても障害者手帳を持っていない、何も持たずに入所してきた方などもいて、生活に必要なものや衣類の購入も十分にできない状況です。

ここでの暮らし、さらにここを出てからの暮らしを支えていくために、生活用品や衣類の購入、資格取得や通勤のための自転車を購入する費用の助成ができればと思うのですが、そのような資金は国からの助成も出ないので、持ち出しで、ご寄付から賄っています。

今回のチャリティーは、彼女たちが自分の足で力強く生きていくために、こういった資金として活用させていただければと思います。ぜひ、アイテムで応援いただけたら嬉しいです。

──貴重なお話をありがとうございました!

旅行先で、皆で食卓を囲む。「どう自分らしく生きていくかを一緒に、前向きに考えていきたい」

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

zoom越しに五十嵐さんからお話をお伺いしながら、かにた婦人の村さんの牧歌的で、やさしく全てを包み込んでくれるような雰囲気が伝わってくるようでした。60年近く前に、知的障害や精神障害のある方が終生過ごせる場所としてスタートしたかにた婦人の村ですが、現在は、傷ついた女性たちが心身を癒し、「地域へと帰っていく」ことを目指して、寄り添いながらの自立支援にも力を入れられています。
かにたの中で受け継いでこられた豊かな「かにた文化」、そしてそれを育んできた大自然が、これからも大きな力になっていくのではないかと思いました。

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形も模様もさまざまな味のある陶器と、ただそこに、全てを受け入れるような佇まいで存在する猫を描きました。
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