CHARITY FOR

路上生活者や生活困窮者、一人ひとりが置かれた状況に思いを馳せ、尊重しながら生活に伴走する〜NPO法人TENOHASI

東京・池袋を中心に、2003年から路上生活状態にある人たちの自立を支援してきたNPO法人「TENOHASI(てのはし)」が今週のチャリティー先。

「TENOHASI(てのはし)」という名前は、「地球と隣のはっぴい空間・池袋(The Earth and Neighbor Of Happy Space Ikebukuro)」の頭文字をつなげたもの。炊き出しやおにぎり配り、医療相談や整体なども行い、路上生活状態にある人の自立に向けた伴走支援を行ってきました。

「路上で生活している方は、孤立していて、人を信じることが難しい方が少なくない。食料はとても大事だけれども、それをお渡しするというのは本当に一場面。活動を通して、生活に困っている方と出会い、関係性を築いていくための一つのツール」。

そう話すのは代表の清野賢司(せいの・けんじ)さん(61)。
活動スタートから20年。池袋という街や時代の変化を感じながら、「相手の生きてきた歴史を敬い、意思を尊重する」ことを大事にしているというご活動について、清野さん、スタッフの大野力(おおの・ちから)さん(36)にお話を聞きました。

お話をお伺いした清野さん(写真左)と大野さん(写真右)。早速、今回のTENOHASIさんとのコラボデザインTシャツを着て撮影してくださいました!

今週のチャリティー

NPO法人TENOHASI(てのはし)

失業や病気、障がいなど、さまざまな背景から家族や仲間とのつながりを失い、孤立状態にある人たちと出会い、話し、一緒に考え、試行錯誤しながら、安心できるつながりと住まいを取り戻すお手伝いをしています。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2023/08/14

「つながる」ことを大切に

炊き出しの様子。「東池袋中央公園で、18時からお弁当や野菜・果物、パンなどを配っています。今年度は平均約550食を毎回配っています。1回の炊き出しを行うために、当日公園での炊き出しスタッフは15時30分から、食料を運搬するスタッフは朝から動いています」

──今日はよろしくお願いします。最初に、団体のご活動について教えてください。

大野:
東京都豊島区を中心に、生活にお困りの方、路上生活状態にある方の自立を手助けしている団体です。

具体的な活動内容としては、毎月第2・第4土曜日の東池袋中央公園での炊き出し、といってもコロナ以降は包装された弁当の配布、そこでの生活相談と、毎週水曜日の池袋駅前公園でのおにぎり配りと夜回り、そこでも生活相談を受けています。

何らかの事情があって炊き出しやおにぎり配りの場所に足を運べない方もいますので、アウトリーチとして、池袋駅の東口、西口、4つほどのコースに分けて、路上で寝ている方におにぎりをお届けしながら「困りごとはないですか」とお声がけしながら接触もしています。

ある日の炊き出しにて、配布した食品たち

──食料配布だけでなく、対話が大事なんですね。

清野:
そうですね。最初から信じてもらうことは難しく、食料を受け取らない方も多いです。それでも諦めずに、何回も何回も顔をあわせて、やっと信頼してもらえる。

つい先日も、池袋駅で1年間野宿していた方が、最初は拒否されていたのですが、初めて相談をしてくれました。今週、私たちのシェルターに入ってもらって、ここから伴走支援がスタートします。

医療班のブース。多種多様な医療ニーズに応じられるよう、医師を含め多くのスタッフが対応している

最初は拒否されても、
徐々に関係性を築いていく

おにぎり配りの様子。「炊き出しでの相談と同様、私たちはあくまで黒子としてサポートすることを心がけています。相談をしに行くのではなく、相談出来る場所を用意して待っています」

大野:
おにぎりや弁当をお渡ししようとすると、「要らない」と受け取られないことが多くあります。「構わないでくれ」とか「他人からは一切受け取らない」と言われるような場面が、実は結構あります。

しつこく「もらってください」というアプローチは、こちらとして良い関係性ではないと思っていますので、その時は「わかりました」と引き下がります。ただ、同じしつこさの中でも、その一瞬に何か一言、声をかけて顔を覚えてもらうとか、受け取ってもらえなくても、相手にちょっと油断してもらって心を開いてもらうような、地道な声がけを継続していくことが大事です。
最初は拒否していても、繰り返すうちに受け取ってくださることがあります。

生活相談ブースの様子。「基本的に、1対1でプライバシーを確保しながら相談を受けています。時には21時頃まで相談が続く事もあります」

清野:
知らない人から食料を手渡されても、最初は「毒でも入ってるんじゃないか」と疑うでしょう。でも、次第に顔見知りになってくると「パンだけなら」とか「おにぎりだけなら」と受け取ってくださることがあります。
その時に一緒に団体のチラシを受け取ってくれて、「実はしんどい」と相談してくださることもあるし、食料は受け取っても、そこから先は断固拒否もあるし、食料すら拒否されることもあります。

拒否を続けているうちに持病が悪くなり、一緒に救急車に乗った時にはもう手遅れ…ということもあります。でも、そこには一人ひとりのタイミングや思い、これまでのご経験があります。ここは我々として、いかんともしがたい部分です。

2017年に池袋の公園で出会ったNさん(写真左から二人目)。「生活保護を受けたけれど、福祉事務所で紹介された集団生活の宿泊所が嫌で、出てこられた方です。Nさんは18歳で故郷を出てからは一度も帰らず、土木現場で働いてきたそうです。『オレの頃は、穴掘ってりゃ金になったんだよ』と笑っていました。たまたま清野と誕生日が一緒だったので、シェルターを経て一人暮らしを始めてからも、合同の誕生会を毎年やりました。ちょっと悟ったような、無欲で飄々とした人でしたが、一度だけ『次の誕生会は、着物の女将がいるところがいいなあ』とおっしゃり、店を探して女将に着物を着てもらいました。お酒を飲むと冗談がさえわたる、楽しいおじちゃんでした。体が衰えてもリハビリは断られ、昨年、病院で亡くなられました。コロナで面会できなかったのが心残りです」

出会いは、「相手を思うこと」から始まる

相談の様子。「同じ目線で相談にのっています。私達は相談者に支持する立場ではありません。そして必ずしもこの場で問題を提起したり解決しなければならないわけでもありません。ご本人の意向を重視しながらそこにそっと手を添えるような支援を心がけています」

大野:
「(食料を)受け取らない」というのには、いくつかパターンがあると思うんです。
単純に「お腹の調子がわるい」「歯が痛くて食べられない」「食欲がない」ということもあるし、あるいは、毒は入っていないにしても「弁当をくれてやる」みたいな態度の人からもらいたくないとか、確かに家はないけれど、日雇いでちゃんと稼いでいるから人の施しは受けたくないなど、本人なりのさまざまな理由があるんです。

清野:
「せっかくあげると言っているのに、何だコノヤロー」というのは、あげる側の高慢というか、上から目線になるのかなと思います。そうではなく「この人は、なぜ受け取らないのかな」というところに想像力を働かせること。「何かしらあるんだな」と相手のことを思うこと。出会いは、そこから始まるのではないでしょうか。

考えてみてください。
食べるものに困り、ギリギリを生きているように見えるのに、どう考えたって受け取った方がいいとこちらは思うのに、「受け取らない」と拒否する理由は、たとえば単純にそのもの自体が好みではなかったのか、施しを受けたくないのか、何かしらの理由があって。
そこで生き抜いている、その方の思いや生き方を考えると、とても興味深いと私は思います。

「おにぎり配りは21時30分と遅い開始時間であるにも関わらず、毎週60~90人前後の方が並んでらっしゃいます」

──確かに。

清野:
食料配布の際に、私の電話番号を書いたチラシも一緒にお渡ししています。電話をかけてくる方もそこそこいますが、そこから心を開いて支援につながった方、つながらなかった方、それも千差万別です。

相談に来られて話を聞いて、自立のためにこういうふうにやっていきましょうと計画を立てても、ある日突然「気が変わった」と言う方も、何も言わずに来なくなる方もいます。

あるいは、いつも「何も要らない」と拒否していた方が、ある日「今日は(来るのが)遅いじゃないの」と突然声をかけきて、そこから会話をするようになったこともあるし、路上で生活したいと言っていた方が、ある日突然「支援を受けたい」ということもあります。歳をとって路上での生活がきつくなったとか、路上生活者の狙撃事件があった、実際にいやがらせを受けたなど、本人の中では、いろいろな動機と背景があるのだと思います。

一人ひとりが抱えている問題は、そう簡単には解決しません。ちゃんと向き合って解決しようと思うと、時間がかかります。その時に支援をする立場として、「何かしらあるんだな」と思いを馳せながら本人の意思を尊重することは、とても大切なことだと思っています。

「コロナ禍での炊き出しの対応として、並ばれる方一人ひとりの間隔を空けています。毎回、東池袋中央公園の出口までいっぱいに、約500人の方が並びます」

自立に向けて、安心できる個室を用意

個室型シェルター。「シェルターと呼ばれる部屋は、一般的なアパートそのものです。こういったプライベートが守られた部屋で療養され、環境を整えながら次の一歩へ向かう準備をされます」

──TENOHASIとして、個室型のシェルターも運営していらっしゃいます。

大野:
路上脱出へのステップとして、4ヶ月を目安に滞在できるワンルームの個室型シェルターが、現在24室あります。
住まいをなくして困っている人が、どのような支援があれば次のステップに元気に進めるのか。シェアハウスや誰でもいつでも寝られるフリースペースを作ったりと他にもいろいろやってみたのですが、本人のプライベートが守られる部屋があれば、とてもうまくいくということがわかりました。もちろん、うまくいかないケースもありますが…。

こればかりは、やってみないとわからないところがあって。
「入りたい!」と来られる方もいるし、話を聞いて、こちらから「どうですか」とご案内することもあります。このところ大人気で、常に5〜10人に待っていただいている状態です。

清野:
個室では誰にも邪魔されずに、落ち着いて自立への準備ができます。「初めて安心して眠れた」という声も聞きます。これは非常に大切なことだと思います。

中には、それまでずっと住み込みで働いていたり、集団で寝泊まりする宿泊所に住んでいたりして、電気代やガス代の支払い方がわからないという方もいます。定期的な訪問と相談活動で見守りながら、一人暮らしに向けた支援をします。

「普段、訪問の際に撮影をすることはありませんが、この写真は、シェルターに住んでいる方にインタビューをする機会を作っていただいた際に撮影した一場面です。どのように過ごされているか、困り事はないかなどの話を伺っています」

生活相談、医療相談、鍼灸、炊き出し…
それぞれのチームがタッグを組んで活動

活動を始めた当時の一枚。「食べ終わったどんぶりを洗っている様子です。経費節減と自然環境のために、使い捨ての豚汁用の発泡スチロールどんぶりを、何回も洗って使っていました」

──今年で活動20周年を迎えられますが、TENOHASIの始まりを教えてください。

清野:
活動のスタートは、2003年12月です。当時池袋では、炊き出し・夜回り・医療者グループの3つの団体が、それぞれに活動していました。一つになって活動しようと若いリーダーたちが奔走し、TENOHASIができたのです。

事務局長だった、当時鍼灸師で医学生だった森川すいめいさんが、「地球と隣のはっぴい空間・池袋」の英語の頭文字をとって「TENOHASI」という名前をつけました。でも考えてみると、頭文字をとるにしても少し恣意的というか。
最近、由来をご本人に聞いたら「いやあ、ちょっと学生のノリで…」なんておっしゃていましたが、「皆で手と手をとりあって橋をつなぎ、理想の世界へ」という思いを、どうにか理由づけしたんじゃないかと私は思いますけど(笑)。

──そうなんですね(笑)。

清野:
TENOHASIは「連合体」なんです。
生活相談班、医療相談班、鍼灸班、配給班(夜回りボランティア、炊き出しボランティア)があって、鍼灸班と配給班は半独立のかたちで、東日本大震災の際には被災地でも活動していました。それぞれが活動の中で必要だと感じること、「こういうものを提供したい」ということを、創意工夫しながら、皆で一緒に取り組んでいるかたちです。

医療班には毎回、8〜90人の相談があります。
市販薬をお渡しするなど医療行為にならない範囲での対応をしていますが、最近は「死にたい」「つらい」といった心の相談を持ちかける方もいます。生活相談班とも連携し、課題を共有しながら取り組んでいます。

ここに来たらお腹が満たされて、必要なものが得られて、さらには見知った顔があって、話もできて元気になれる。そしてもし可能だったら、その先にもつながっていくような、そんな場所になれたらと思っています。

「『活動をしていて、最も印象に残っている出来事は?』とよく聞かれるのですが、多くの出来事は一回限りで、それぞれにその人の生涯がかかった大切な出来事なので、一番と言われるととても難しいです。 でも、やはりもう会えない、亡くなった人のことは印象に残っています。この写真に写っているMさんは沖縄の出身で、本土で苦労しながら働き、アルコール依存症になってホームレスに。アルミ缶を集めたわずかなお金をお酒に換え、飲んでいました。シェルターに入りたいとおっしゃるのですが、何回もドタキャン。しかしついに連携団体の部屋に入居されてホッとしたのもつかの間、踏切事故で亡くなりました。アルミ缶を載せた台車が線路の隙間にはまり、どうにか出そうとしている時に電車が来たそうです。2021年の夏でした。その踏切にはその後、新型の障害物検知装置が設置されました。苦難の生涯を生き切った、Mさんの冥福を祈ります」

路上生活者の数は減っているが、
住まいを持たず、孤立している人がいる

首都高速5号線の高架下にあった段ボールハウス。2008年頃撮影

──池袋という街の変化に伴う、課題の変化はありますか。

清野:
路上生活者の数は、ここ20年で数が8割ほど減りました。
私は2004年から活動に携わっていますが、当時は首都高の高架下にブルーシートを張って、その下に100人ぐらいの方が住んでいました。それが今、池袋駅周辺で野宿している方は30人前後です。テント村もすべてなくなりました。

その背景として、良い方向としては、課題はありつつも昔と比べて生活保護が受給しやすくなったことがひとつあると思います。良くない方向としては、公園や公共施設のリニューアルで路上生活者の排除が進んだことです。今、池袋駅周辺で寝泊まりができるのは唯一、私たちが炊き出しを行っている公園だけ。10人ぐらいの方が寝泊まりしています。

池袋は戦後、闇市があった街です。開発が進む中で、雑多で込み入った雰囲気がこじんまりと管理され、暗がりが減って、明るい砂漠のような街になりました。「きれいになってよかった」と思われる方もいると思いますが、公共の場所は夜、どこも入れないように閉鎖され、最後のセーフティーネットだった路上までも失われている今、特に若い方の孤立が目立ってきていると感じます。

スマホが命綱で、毎日スマホで日雇いの仕事を探し、孤立と不安におののきながら生きている方が少なくないのではないかと感じます。

──そうなんですね。

2021年まであったテント村の様子

大野:
コロナ以降、公園の炊き出しに、スーツで並ぶ方の姿もかなりの数います。
いわゆる目に見えてわかる路上生活者の数自体は減っていますが、代わりにネットカフェで過ごしたり、もしくは駅のシャッター前など、警備員に注意されないスポットを探して移動しながら朝まで過ごすような生活をしている方は、以前より多いのではないかと感じています。
「路上生活者」は減っても、住まいを持たない「路上生活状態」にある方の数は、減っていないと感じています。

清野:
炊き出しに並ぶ方が、それがたとえ、見た目がスーツ姿で明らかに路上生活者ではない方であっても「なぜ並んでいるのですか」と尋ねることはまずありません。制限を設けず、並んだ方ならどなたにも食料をお渡ししています。

というのは、池袋という大きな駅の前で、誰が見ているかもわからない中で炊き出しに並ぶというのは、それはやはり、困っているからに他ならないと思うからです。

「こういう条件の人しかダメです」と制限すると、本当に支援を必要としている方を排除するリスクにもつながってしまう。私たちは今のかたち、数がある限りは、欲しいと思う方に渡すことを続けたいと思っています。そこからどんな発展があるか、わかりませんから。

「横並びの一人の人間として、
敬意を持って関わる」

夜回りで配る、パンを手作り。「写真に写っている全員が、ホームレス生活経験者です。以前はパンをもらう立場でしたが、TENOHASIとつながってホームレス状態から脱し、今度は作って配る側に。彼らが焼いたパンが、今苦しんでいる誰かの空腹を満たす。そんな循環がどんどんできることが、私たちの希望です」

──清野さんは20年近く活動に携わっていらっしゃいますが、活動への思いとは。

清野:
働くスタッフを見て楽しそうだと思い、最初はボランティアとして、2006年からは事務局長として、教員をしながら団体に携わってきました。

家族もいて、教員を辞めることは考えていませんでしたが、54歳ぐらいの時に、同じ世代のスタッフと「現役はあと10年ぐらいだよね」という話になり、「ああそうだよな」と思って。子どもも成人したし、学校の締めつけは年々強くなるし、やりたいことをやらせてもらおうと思って。2017年、57歳で教員を早期退職して、TENOHASIの専従になりました。

コロナ前の炊き出しの様子。「コロナ前は、肉や野菜を別の作業場で切り、大鍋に入れて煮込んだ物を公園に持って行って皆さんに配っていました。何人分というかたちで厳密に用意するのではなく、大鍋いっぱい、無くなるまでおかわりをしながら、スタッフ皆も一緒に食べていたことが印象に残っています」

──何がそんなに魅力だったのでしょうか。

清野:
「その方の人生に深く関わることができること」でしょうか。
歴史の教員だったんです。歴史が好きなんですよね。

昭和の生き証人のようなおじさんたちからいろんな話を聞いて、他愛のないおしゃべりをしたりくだらないことを言い合ったりするのも好きだし、自分が、教員社会ではメインストリームにはいなくて外れ者だったので、おじさんたちとは安心して、楽しくおしゃべりができたところがありました。

──そうだったんですね。

清野:
教員をしていた時、学校にはルールがあって、クラスで暴れる子やいじめる子は無条件に制圧しなければいけない、みたいな雰囲気がありました。鬼教師みたいな先生がいたら、クラスは落ちつくかもしれません。でも、権力者でいなければならない自分が、とても嫌でもあったんです。

権力者でも偉い人でもなく、横並びの一人の人として、ただの飲ん兵衛のおじさん同士、「ちょっとお手伝いしますよ」という関係性が、私にはとてもしっくり来たし、気分が上がりました。

──引き継いでいきたい「TENOHASI」のスピリットはどのようなものでしょうか。

清野:
我々がやっていることというのは、その方の唯一無二の尊厳を守る、または回復することだと思っています。厳しい社会の中を生き抜いてこられたことに敬意を持って、誠意を持って、ご本人の選択と意思を尊重しながらお手伝いをすることでしょうか。

とはいえ中には、たとえばお金をお酒やギャンブルですぐ使い果たしてしまう、病気が悪化するなど、非常によくない意思決定もたくさんあります。
それでも、ご本人の生き抜いてきた軌跡を尊重して、敬意を持って話を聞かせてもらい、学ばせてもらうという立ち位置なのかな。その方に興味を持って、尊敬しながら接するということは、自分がいつも心がけていることです。

夜回りで配るパンを手作りしているところ。和気あいあいと生地をこね、パンが焼き上がるのを皆で待つ

チャリティーは、炊き出しの食費や個室型シェルター運営資金として活用されます!

「衣・食・住の”衣”に対するニーズにもできる限りお応えしています。炊き出しと同じ公園で、月に一回の衣類配布も実施しています」

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

大野:
チャリティーは、炊き出しの食費として、また個室型シェルターの家具や生活備品の購入や入退去時にかかる資金として、活用させていただく予定です。
チャリティーアイテムで、ぜひ応援いただけたら嬉しいです。

──貴重なお話をありがとうございました!

TENOHASIとして活動するチームの皆さんと。「それぞれのチームが集まり、暗くならないうちに撮った一枚です」

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

同じ目線に立って、横並びで支援されるというTENOHASIさんのご活動。
食や住まいももちろんですが、「話を親身になって聞いてもらえた」「自分の意見を尊重してくれた」、何よりも「温かく受け入れてもらった」と感じられる経験、そのような場所があり人がいるということが、どんな状況にあっても、大きな力になるのだと改めて感じました。
「自己責任」と言うのは簡単です。だけど人は多かれ少なかれ、助け合って寄り添って生きている。しんどい時や困っている時に、思いやったり手をさしのべてくれる誰かの存在が、今日を生きる力になるのではないでしょうか。

・TENOHASI ホームページはこちらから

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【2023/8/14~20の1週間限定販売】
森のキノコや草花、石、その周りで思い思いに過ごす小さな生き物たちを描きました。
生き方に正解はなく、時には雨に当たったり、風を感じたりしながら、みずみずしいその人だけの生を生きる様子を表現しました。

“We all live in the same moment“、「皆、同じ瞬間を生きている」という言葉を添えています。

チャリティーアイテム一覧はこちら!

JAMMINは毎週週替わりで様々な団体とコラボしたオリジナルデザインアイテムを販売、1点売り上げるごとに700円をその団体へとチャリティーしています。
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