CHARITY FOR

我が子のように、家族のように。思いやりの心で接する質の高い医療を地域に根付かせ、アジアの子どもたちに届ける〜NPO法人フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN

(© Adri Berger)

ラオスのルアンパバーンにある「ラオ・フレンズ小児病院」にて、小児医療の現地化を目指して活動しているNPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN(フレンズJAPAN)」さん。

代表の赤尾和美(あかお・かずみ)さん(59)は、看護師として1999年からフレンズJAPANに携わり、小児医療を現地に根付かせるため、診療はもちろん、教育や予防にも力を入れてきました。

2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大は、病院の運営や診療にも多大な影響を与えたといいます。
そんな中でも、一人ひとりの患者に対し、自分の家族と同じように、我が子のように思いやりの心で接する「コンパッショネイト・ケア(思いやりの心を持って対応する)」を第一にしてきた赤尾さん。ラオスで活動を始めてから、今年で7年。2030年にこの病院の運営を現地スタッフに引き渡すことを目処に、今日も活動しています。

「この活動を始めた時、質の高い医療を提供しようと思うと、それは知識や技術だけではカバーしきれないのだということを私自身が痛感しました。

知識や技術は2〜3年あれば身につけられるかもしれないけれど、どんな相手に対しても、まるで家族のように、我が子のように心をこめてケアをするということは、マニュアルでは伝わらない。
一瞬一瞬が学ぶチャンスであり、教えるチャンス。そのぐらいに染み込んでいかないと、本当に思いやりのあるケアは出てきません」

そう話す赤尾さん。ラオ・フレンズ小児病院にいる赤尾さんと、zoomをつないでお話を聞きました!

(お話をお伺いした赤尾さん)

今週のチャリティー

NPO法人フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN

ラオスやカンボジアを中心にアジアの子どもたちへ小児医療支援を行う。「医療・教育・予防」をプロジェクトの柱に、持続可能な小児医療を目指して活動している。

INTERVIEW & TEXT BY MEGUMI YAMAMOTO
RELEASE DATE:2022/12/12

心のこもった、質の高い医療の提供を目指して

(ラオスにある「ラオ・フレンズ小児病院」の最近の外来待合所の様子。「コロナ禍が落ち着いてロックダウンもなくなり来院患者数が増えて、ベンチを追加購入しました」)

──最初に、フレンズJAPANさんの活動について教えてください。

赤尾:
アジアの子どもたちに小児医療を提供するために活動しています。医療を私たち外国人が提供し続けるのではなく、現地の人たちに病院の運営を引き渡していくことが最終の目標です。

1999年にカンボジアで最初の病院「アンコール小児病院」を設立し、2013年には現地化しました。その後、2015年に今私がいるラオスの「ラオ・フレンズ小児病院」を作り、2030年の現地化を目指して活動しています。

「コンパッショネイト・ケア(思いやりの心を持って対応する)」を大切にしており、小児病院という箱物をつくるだけでなく、心のこもった質の高い医療の提供を目指して、現地の人材育成に力を入れています。

(「子どもたちにとって、‟遊び”は重要。コロナ禍でみんなとても大変な時も、入院している子どもたちを笑顔にするために頑張りました」)

──日本とは文化や習慣が違う中で、また一人ひとりの慣性や価値観も違う中、どうやってそこを共有し、身につけてもらうのですか。

赤尾:
団体に関わった当初、私の心構えとしても「まずはとにかく、知識と技術だろう」という姿勢でした。しかし現地の医療職の子たちは皆、頭が良くてモチベーションも高く、知識や技術はすぐに学んでくれたんです。
だけど一方で、子どもの症状以外は放置されているような状態でした。待合室で泣いている子どもを見ているか、お母さんの表情を見ているか…、こういったことは知識や技術ではどうしようもないと痛感しました。

(コロナ禍では防護ガウンを着ての診察が必須。「外来でトリアージをしているスタッフにカメラを向けた時、ポーズをとっておどけてみせたスタッフです。どんな時も楽しくお仕事する心意気が嬉しいです」)

赤尾:
たとえば死に直面した時、子どもの余命を親御さんに告げなければならない時、我が子が亡くなって大泣きしている家族がいる時…、それがそのまま放置されているようなことがあったんです。

「医療としてやれることはやりました。それ以外は範疇外です」と放ったらかしにするのが、私たちの目指すあり方なのか。目の前にいる患者さんや家族を、自分の子どもや家族と同じように思って接することができて初めて、ケアであるのではないか。
そのためには、関わってくれているスタッフ一人ひとりが、日々の認識や行動を、本当に少しずつでも変えていく以外に方法はありません。

(院内スタッフ全員が受講したコンパッショネイト・ケアのワークショップでの一場面。「自分が受けたコンパッショネイト・ケアの経験を発表しているところです」)

気温が高い中、防護ガウンを着て
ロックダウンでも続けた訪問診療

(「病棟では、常に防護服のフル装備です。コロナ禍という未知の経験に緊張感が漂う現場、それに加えて通気性の悪いガウンに体力を奪われぐったりとしている状況でしたが、マスクにキャップで誰なのかが分からず、似た背格好のスタッフを間違えるというハプニングが頻発し、日々緊張感漂う職場に笑いが漏れるひと時もありました」)

──医療の現場なので、コロナの影響は大きかったのではないですか。

赤尾:
そうですね。入院患者の数自体は変わりませんでしたが、町がロックダウンして道路が封鎖されたので、外来診療のために来院する人の数はぐっと減りました。

日々の業務に加えてコロナの対応が必要になり、毎日、手探りの中で初めてのことに挑んでいました。
コロナ感染の可能性があると、隣接する県立病院のコロナ病棟に入る必要があったのですが、たとえば感染がわかったのに、もともと持っている病気の症状が重く、コロナ病棟には小児の専門スタッフがいないために送ることが難しい子がいたり、入院患者やその家族、スタッフにまで感染が拡大する中、限られた人員をどう配置するかといったことに、その都度対応する必要がありました。
初めての経験ばかりでストレスはありましたが、おかげで現場のリスクマネジメントの力がついたと思います。

(ロックダウンで制限された訪問看護も、村で防護服を着て対応した。「炎天下で暑さが半端なかったです」)

──医療が遠い人たちのために、町から離れた村への訪問看護にも力を入れておられましたが、この間はどうされたのですか。

赤尾:
コロナがない頃は、訪問看護では100~200名の患者さんを診ていました。
その中でも10名ほど、コロナだからと訪問しないでいると命に関わる患者さんもいたので、ロックダウンであろうと「行きたい、行かなければならない」という思いで、訪問する患者さんを最小に絞り、診療を継続しました。

(ロックダウンした村。「村ごとに、写真のようなバリケードを作成して村の出入りができないようにされていました。このバリケードの中に病院スタッフが居住しており、出勤ができず、政府からは通行許可書が発行されました」)

赤尾:
ラオスの保健局から特別に許可証を出してもらい、道路のチェックポイントごとにそれを見せながら村まで辿り着き、村に着いてからも、入り口がブロックされているので、村の人に状況をあれこれと説明して、やっと入れるようなかたちでした。村の人が、銃を持って見張っていることもありました。許可証を見せてもなかなか入れてもらえず、あちこちに電話してやっと説得でき、渋々入れてもらうことも多かったです。

(「コロナ前は、毎年日本から美容師さんのグループがボランティアに来てくれて、村へ行って数百人に及ぶ子どもたちや家族のヘアカットをする活動をしてくれていました。この写真の子はその中の1人です。怖がる子や泣いてしまう子が多い中、この子は小さいのにどっしりと構えていてその度胸の良さに感心しました。そして、何よりかわいい。元気がない時にこの写真を見たら絶対に元気になる1枚です」)

──各地を移動することで、ご自身がコロナに感染したらどうしようという不安はなかったですか。

赤尾:
コロナが発生したのは町中だったので、むしろ私たちが村にコロナを持っていく方が怖かった。きれいな水も石鹸もないような場所で、もし私たちが来たことが原因でコロナ感染が拡大してしまったら、この活動が元も子もないと思いましたし、ただでさえ医療が遠いのに、私たちがコロナを持っていったとなれば、「やっぱり医療は信用できない」とますます遠ざかってしまう。常に危機感を持っていました。

とにかくちょっとでも何かあるといけないので、日中35度を超える病棟ではもちろん、村でも防護ガウン、マスクや手袋を着用し、完全に防備する必要がありました。訪問看護では、一件お宅を訪れるごとに、車に戻ってガウンや手袋をすべて新しいものに替え、また次のお宅を訪問するというかたちでした。
後はとにかく、自分たちが健康を損なってしまったらどうしようもないので、体調管理を徹底しました。

(訪問看護で訪れた村。「村は大抵、写真のように集落となっていて、村社会の強い絆があるように思います。村と村との距離は様々ですが、数十キロ離れているということも稀ではありません。家から離れた場所にあるファームへ出ることはあっても生活圏として村から出たことがない人もたくさんいます。『村が全て』という状況も大げさではないと思います」)

「医療は医療だけで存在しているわけではない。
“その人を看る”ことが大切」

(訪問看護で関わっていたH君。体調も改善し、目標としていたこと全てを達成したために訪問看護を終了したのが数年前。最後の日に『写真を撮ってほしい』と言われて、お母さんとお婆ちゃんと一緒に撮った写真をフレームに入れてプレゼントしました。つい先日、訪問看護の移動中に、遠く離れたファームから自宅へ徒歩で戻るH君家族にたまたま遭遇!病院の車を見つけて、偶然の再会に、車から降りた私たちに飛びつかんばかりに喜んでくれました。元気なH君と満面の笑顔のお母さんを見て、地道に築いた信頼関係は失われることはないなと実感し、スタッフ共々、心がふんわりとした気分になりました」)

──どのようなご家庭を訪問されていたのですか。

赤尾:
あるご家庭は、両親に知的障がいがあって、生まれた赤ちゃんにミルクをきちんとあげることが難しく、赤ちゃんの成長が気になっていたので訪問しました。貧困でミルクを購入できず、病院から提供していたので、それを渡しがてら様子を見に伺いました。

もしかしたら、「わざわざ訪問しなくても、まとめて渡したら良いのに」と思われるかもしれません。でもそれでは、ミルクを届けることはできても、赤ちゃんがきちんとミルクを飲めて、健やかに成長できているかどうかがわかりません。実際に現地へ伺って、ご家庭の状況やお子さんの健康状態を確認する必要がありました。

──そうだったんですね。

(訪問看護へ向かう道中。「ラオスではまだ舗装されていない道がたくさんあります。訪問看護は『行かれるところはどこでも行く』ことを前提としていますが、道の情報は、行ってみないと分からないことがほとんど。車は不可欠ですが、時には車では行かれない場所もあります。そんな時は基本に戻って、徒歩で移動します。交通手段を持たない患者さんたちが同じように病院へ来ているということを改めて認識すると同時に、ついかけてしまう『どうして、もっと早く病院に来なかったの?』という言葉を反省する経験になります」)

赤尾:
HIV感染の患者さんは、お薬に対する耐性ができないように定時にきちんと決まった量を服用することがとても重要です。そのためにご家庭を訪問して、薬の服用状況を細かくチェックします。
脳に炎症があって麻痺があり、食べ物を食べることが難しいお子さんのご家庭は、患者さん本人の栄養状態をチェックしながら、どのような食事だったら食べられるか、ご家庭の状況を伺うために訪問しました。

末期の小児がんの患者さんがいるご家庭は、電話で状況を確認してはいたのですが、やはり状況が見えないため、訪問しました。末期のがんの場合、痛みのコントロールのために最終的にはモルヒネを用いるのですが、それをきちんと管理・提供する必要があります。ご家族にそのあたりを再度お伝えするためにも、訪問が必要でした。

(「中央の小さな女の子の名前はKazuちゃん。私と同じ名前です。Kazuちゃんは早産で、出産後にお母さんはKazuちゃんを残して亡くなり、お父さんが養育を担うことになりました。Kazuちゃんは1キロに満たず、そのまま当院へ入院となりましたが、お父さんは村へ帰ったまま、姿を現さなくなりました。どうしてしまったのだろうと2時間かけてご自宅を訪ね、お父さんを病院へ連れて来る道中、彼は自分の苦しい立場と心の葛藤を話してくれました。それは、Kazuちゃんが村の中で『お母さんの命を奪ってしまった子』とされ、受け入れが良くないということでした。ラオスでは民族によっていろいろなしきたりや信じていることがあり、医療をはじめとする日常の行動に影響を与えています。お父さんは、自分の子どもでありながら、村の人たちの反応にどうすればよいのか分からずに困惑していたのでした。しかしかわいい我が子を見て、気持ちは変化していきました。まだ名前がなかった彼女に、病院スタッフが『日本の名前を付けてもらったら?』というので、私が自分の名前を例に挙げて説明したところ、お父さんが『Kazuという名前がほしい』と言って、Kazuちゃんになりました。入院は半年以上続き、退院の時には村で大掛かりな儀式が行われ、Kazuちゃんは無事村で暮らせるようになりました。現在、訪問看護は終了し、Kazuちゃんは順調に大きくなっています」)

──患者であるお子さんの状況と、プラスしてご家族が症状や状況をどう捉えているかというところを確認することが大切なんですね。

赤尾:
そうですね。
教育を受け、足し算や引き算を習い、時間の概念を皆が持っている日本の環境では、「薬の説明をして、それが理解できない」という状況をなかなかイメージしづらいかもしれません。しかしここでは、学校教育を受けておらず、時計を使ったことがない、足し算や引き算がわからないという状況にも出くわします。

そういう方たちを相手に医療や看護を提供する時に、自分の感覚だけでいくと、場違いになってしまう。その場にいないと状況が見えないということが、多々あります。

──そうなんですね。

赤尾:
先ほどの知的障害のご両親のケースですが、ミルクの量は、「1回の量は5スプーン、150ccの水で溶かして、それを1日5回」と決まっているのですが、それだけを伝えても理解できず、実践されないことがほとんどでした。

(重度の障がいを持って生まれたPちゃんの両親には、知的障がいがあります。Pちゃんと関わるようになって数年後、お母さんが亡くなり、その後は14歳の長女とお父さんがPちゃんの介護をすることになりました。お父さんに障がいがあるため、安定した収入を得ることが難しく、また覚えられないためにPちゃんの授乳と薬の管理ができないことや、Pちゃんを除く3人の子どもたちが学校へ通っていないなど、さまざまな家庭の問題を抱えていました。医療面からのアプローチだけではどうにもならないことが判明し、細かく関わることで少しずつ状況が改善していきました。写真は、ミルクと薬1回分ずつの分包を作成しているところ。1日分×7日の1週間分を分けて渡し、週に一度、チェックのために訪問するようにしたら、完全ではないですが、だいぶ間違いなく管理することができるようになりました。収入面では、14歳の長女を職業訓練支援の団体につなぎ、訓練を終えて、11月からはレストランに就職し、働いています。連絡先を渡し、何かあれば24時間対応できるようにして、一家が自立できるように伴走しています」)

赤尾:
そのような場合は、普段使っているコップの150ccのところに「水はここまでの量だよ」と書く、ミルクをあげる時間は「太陽がこの位置に上がるまでに2回あげて、そこから太陽がここに落ちるまでに2回あげて、寝るまでにまた1回あげてね」という説明をすれば、分かりやすくなります。

薬の場合は、いろんな種類の薬をそれぞれ渡すと飲み忘れが生じてしまうので、手間はかかりますが、一回分をまとめて一つのパッケージにして、日付を振って渡します。そうすると、こちらが訪問した時に、「いつ、どれくらい飲めていないか」がわかるので、起きている症状について把握しやくなりますし、対策も打ち出しやすくなります。

あるいは時間の概念はわかっていても、老眼で時計の針が見えていないということもあります。そんな時はめがねを準備してあげるとか、薬を飲む時間にアラームを設定してあげると解決します。「何が原因なのか」を深く追求し、その上でどうすれば良いかを見極めます。

──コロナ禍においても、単に医療行為だけを届けるのではない、「コンパッショネイト・ケア」を実践されていたんですね。

赤尾:
こちらが説明した時、皆さん「はい、わかった」と素直に答えてくださいます。でもそれが本当に日々の生活で、実践できているかが大切。そのためには、いつも「人を看る」というのですが、患者さん一人ひとりの体だけでなく、その方を取り巻くいろんなもの、家族や環境、信じているもの、知識などをひっくるめて知り、関わる必要があります。

医療は医療だけで、病気は病気だけで存在しているわけではなく、生活や環境、さまざまなものと関わり合っているわけですから。

(進行した骨肉腫を患っていたNちゃん。「首都ビエンチャンにある専門病院は、家族にとって高額な治療費が必要となります。一旦自宅に戻って資金調達を試みる中で症状は悪化し、誰の目からも終末期を迎えていることは明らかでした。緩和ケアを提供するために、ルアンパバーンから車で半日かかるNちゃんの村を訪れ、一泊二日の訪問看護を行いました。Nちゃんは、全身の痛みがつらいこと、早くお友達とまた学校へ行きたいこと、食べたいものはリンゴにオレンジに豆乳、細身で裾が広がったジーパンを履きたいと思っていることを、苦しい呼吸をしながらも嬉しそうに話してくれました。翌朝、リンゴにオレンジに豆乳、治ったら履きたい細身のジーパンを購入してお父さんに渡し、今後のケアを考えながら帰路につきましたが、その数日後、彼女が息を引き取ったという連絡がありました。私たちの訪問の翌日、Nちゃんは『蝶々の産卵の季節』という物語を書き残していました。後日、ご家族のフォローアップに訪れたスタッフが、字を読むことができないご家族にかわってこの物語を書き残したNちゃんの思いを知りました。亡くなる直前の彼女が何を思っていたのか、本当のところは誰も分かりませんが、彼女は皆の心に強く残りました」。物語はこちらから読むことができます→『蝶々の産卵の季節』

コロナの中で生まれた、
現地スタッフの意識の変化

(現在のアウトリーチチームのメンバー。「看護師2名、ソーシャルワーカー1名、カウンセラー1名、ドライバー1名と私というコンパクトなチームですが、院内での守備範囲は外来、一般入院、新生児室、訪問看護と全てです。最初は何でもかんでも指示を出さないと前に進まないことばかりでしたが、今ではいつの間にか問題解決して片付いている。それぞれのスタッフが支え合いチーム力をアップすることができるようになっていることには驚きです。そして何よりも、フレンズが掲げるコンパッショネイト・ケアに関しては、院内でのロールモデルとして自慢できるほど。今後がさらに楽しみです」)

──病院の運営については、コロナの影響はいかがですか。

赤尾:
コロナ前は多くの外国人スタッフやボランティアが関わっていましたが、コロナが流行し、その多くが自国へ帰らなければならない状況になりました。

そんな中で、コロナのいろんな対応に追われ、私の方でも一つひとつを隅から隅まで丁寧に見ることが難しくなりました。逆に言うと、現地スタッフたちが自分たちで考えて動いてくれることが増えました。その中にも「うまくやっているな」と思うことと、「それは違うな」と思うことがありました。

でも、それを私がいちいち突っついてしまうと、本来最も大切にしてほしいはずの「患者さんのためにこうしたい」よりも「カズミがOKと言ってくれるかどうか」が彼らの判断基準になってしまうと感じました。

(「院内のマネージャーが、1日かけて行ったワークショップ・ミーティングの風景です。開院当初、各部署の管理を担うのは全て外国人でしたが、開院後8年を迎える今、これだけたくさんのラオス人のマネージャーが誕生し、病院の将来を議論するほどに成長している姿は、見ていてとても頼もしいです」)

赤尾:
タイミングよく私もだんだんと歳をとってきたので(笑)、あえて口出しをせずに距離を保ち、見守ることを心がけました。

2020年に最初のロックダウンが起きた時は、私も日本に半年帰国することになったのですが、現場を見ていないと文句も出ません。電話やオンラインでやりとりをする時に、「カズミはどう思う?」と答えを求めているのがわかるんです。そんな時こそ、「あなたはどう思う?」と聞き返すようにしました。

そうすると次第に「私はこうした方が良いと思う」と皆、意見を言うようになりました。間違ってないかなと思う時には「それでいいんじゃない」と伝えましたし、違うかなと思う時には「こうしなさい、ああしなさい」ではなく、「これに関してはどうなの?」と、本人の見えていない部分に導くかたちを取れるように意識しました。

(「コー看護師(コー君)は、8月にアウトリーチの部署で新規雇用した訪問看護師です。この写真は入職した翌週のもの。朝、出勤すると、コー君が泣いているこの子を抱っこして、『お父さんはどこかな~?』と入院病棟から出てくるところに遭遇しました。付き添いのお父さんがご飯を作るために病室から出てしまい、心細くて泣き出したようです。それを見たコー君、すぐさま抱っこして、お父さんを一緒に探しに行こうと連れ出してきたところでした。小児病院では子どもの泣き声は常にどこかから聞こえていますが、『ヘルプの泣き声』にコー君のアンテナが反応したということに嬉しくなりました。コー君が既に持ち合わせているコンパッションの心が今後は更に芽を出してくるのだろうなと思った朝でした」)

赤尾:
本当に少しずつですが、それでも確実に、ラオス人スタッフたちの中で「自分たちでやれている」という自信や、信頼が生まれてきていると感じます。

コロナ前、各部署のトップはほとんど外国人のスタッフでしたが、今はほぼ、ラオス人です。2030年の現地化を目指して、リーダー格の地盤固めのために、さらに成長してもらえたら。外国人である私たちが去った後に、なくなるのでは意味がない。ここに着実に、確実に根付くものがほしいと思っています。

(「看護部がスタッフの慰労旅行で郊外にある田んぼの中に作られた宿泊施設へ一泊旅行を行った時、私も便乗して参加した時の写真です。周囲はまぶしいほどの鮮やかな緑色の稲穂に囲まれて、刻一刻とその色と形を変える神秘的な夕日を見ながら自然からのエネルギー補給で満たされました」)

「成長や成果は、時々サプライズのように出てくるもの」

(写真で私と一緒に走っているのは、モンちゃんです。モンちゃんは、ある疾患のために脳に障がいが残り、そのまま退院することになりました。自分で食べることも身体を動かすこともできない状態での退院は、家族にとって大きな負担となりました。食事は家族が流動食を作って鼻からチューブで注入するのですが、食材すらなかなか入手できない状態。1〜2週間に一度、家庭を訪問していましたが、体重はどんどん減少し、他の健康の問題も出てきました。諦めずにできることを辛抱強く模索し続けていたある日、モンちゃんが明らかに私たちの話し声に反応している様子が見られたのです!ご家族もスタッフも、モヤモヤがすべて吹き飛びました。そこから回復が順調に進み、大好きだった学校にも復学。私たちが毎年開催しているチャリティーマラソンに招待し、一緒に7キロを完走した時の写真です。ゴールした時、モンちゃんも大泣きしていました」)

──思いやりややさしさ、自分で考えて行動する…、こういったことは目に見えるものではないし、難しいですね。

赤尾:
そうですね。一人ひとり、何をどう、どれくらい感じるかというのは違います。
伝えたことがすぐ行動につながるのか、あるいは時間が経ってからなのか、それは人によって、環境によっても違います。でも私が思うのは、成長や成果は、時々サプライズのように出てくるものなのかなと。積み重ねの連続が、結果につながっていくのではないかと思っています。

(「訪問看護の途中に出会った子どもたち。家でご飯を炊いたり、暖を取ったりする時に使う木を、森の中から集めて帰宅するところです。こんな小さな子どもたちにも、家族の一員としての役割がちゃんとあるのです。まさに『生きている活動=生活』を、みんなが担って毎日を生きているということを感じます。自分の生きる場所を作り上げているような、揺るぎないものを感じるのです」)

赤尾:
ここで一つ、私が嬉しかったスタッフの話をします。
ある一人の子が入院していました。その子は足に麻痺があり、退院する時に「村に帰ってから上手に歩けるように」と歩行補助具を渡したんですね。

退院してしばらく経った時、病院から7〜8時間離れたその子の村を訪問看護で訪れた際にその子の家へ伺うと、補助具は使われずに立てかけてありました。「なぜ使わないの?」と尋ねると「足が痛くなるから」と。直接肌の上から補助具をつけると、擦れて痛かったんです。でも、靴下があるような家庭ではありません。

その時、隣にいたラオス人のスタッフが、「これを使って」と自分の靴下を脱いで、その子に手渡したんです。ちょっと照れ臭そうに「汚いけど、洗って使ってね」と言いながら。

(「子どもに履いていた靴下を渡したカンパ看護師(カンパ君)とのお付き合いは、もう7年以上。入職してきたときには英語もパソコンもできませんでした。ですが、努力のかたまりのような彼の上達は目を見張るものでした。とても頑固だけど、とてもピュアなカンパ君はどこでもお父さんになってしまいます。写真の家族は7人兄弟。訪問すると喧嘩あり大泣きありの大騒ぎですが、そんな子どもたちもカンパ君の手にかかれば、整列もあっという間。さすがです」)

赤尾:
その光景を見た時、「ああ、これだよ」と思いました。「履いていた靴下…」と思うかもしれませんが、彼はこの子のことをまるで自分の子どものように思っていたから、自然とそんな行動が出たんだと思うんです。

とても嬉しく、頼もしくも感じましたし、これまでやってきたことは決して間違っていなかったと感じました。これは、積み重ねてきたものがないと出てこない行動だと思います。
そしてまた、常にその人から出てくるわけでもなくて。いろんな波長とか環境が合致した時に、そういうものが自然と出てくる。だから、これからも伝え続けていきたいと思います。

(「入院していたダオちゃんとそのお姉ちゃんの写真です。ダオちゃんは足の骨に問題があり、長期の治療が必要でした。コロナ禍のロックダウンも重なって、入院生活は合計で1年にも及びました。ダオちゃんは歩くことを制限されていたため、院内ではお姉ちゃんがこうしておんぶで移動をすることが常でした。お姉ちゃんは車椅子ではなく、あえておんぶをしていたのです。毎日見かけたこの光景、見るたびに『寄り添うってこういうことだよなぁ』としみじみと眺めていました。もちろん車椅子もあるけれど、お姉ちゃんはあえておんぶを選び、寄り添った。おんぶは、身を任せること。単に移動手段というよりは、信頼、愛情、安心、心丈夫、温かみ、慈しみ…、たくさんの感情が、この光景から感じられました。私たちが目指すコンパッショネイト・ケアのお手本であり、小さな姉妹から学んだことでした」)

チャリティーは、入院中の患者さんとその家族の食材の購入、訪問診療のガソリン代として活用されます!

(コロナ禍にあっても変わらずそこにあり、赤尾さんたちの活動を励まし続けたラオスの豊かな自然の風景。「ラオスの夕日は、とても神秘的なエキゾチックな色が空に広がります。タイミングよくメコン川沿いでこの風景に出会うと足を止めて眺めずにいられません。太陽が沈んでいくように、心が静かに落ち着きを取り戻すことができます」)

──最後に、チャリティーの使途を教えてください。

赤尾:
チャリティーは、ラオ・フレンズ小児病院に入院する患者さんとその家族の食費、そして訪問診療のガソリン代として活用させていただく予定です。

ラオ・フレンズ小児病院では、基本的に入院している患者さんのご家族は自炊します。というのは、自炊してもらうことでそれぞれの家庭の食生活、たとえば塩分が強いとか、野菜を食べないとか、そういうことがわかるからです。経済的に厳しい場合は食材を提供していて、そのために活用させていただきたいのが一つです。

(院内の自炊スペース。「入院している患者さんには自炊をしてもらっています。そのためのキッチンを病院の外に設置しています。毎回火を起こして煮炊きするのですが、どんなものを好んで食べているのかなど栄養に関する情報収集の場にもなります」)

赤尾:
もう一つ、訪問診療の際のガソリン代です。2022年の1〜11月までの走行距離は31,258km+α。半日ほど移動して訪れるような村もあり、ガソリン代はかなりかかってきます。ぜひ、チャリティーアイテムで応援いただけたら嬉しいです。

──貴重なお話をありがとうございました!

(東京のフレンズJAPANのオフィスにて、スタッフの皆さんと。「スタッフのお誕生日をサプライズパーティでお祝いした時の写真です。オフィスでバレないように準備を進めるのもワクワクします。最初はオフィスもなかったフレンズJAPANですが、今はスタッフがそれぞれの役割を全うしてくれて、力強いチームになりました」)

“JAMMIN”

インタビューを終えて〜山本の編集後記〜

オンラインで久しぶりに赤尾さんと再会!変わらないバイタリティにこちらが本当に元気をもらいました。
誰かや何かを思いやり、できることを実践すること。それはとても尊いことですが、日々医療の現場で活動されながら、同時に目に見えないものをも伝えていく難しさは、並大抵のことではないと感じます。それだけの思い、何よりも、それが最も大切なものであるという信念がないと、貫くことも、立ち向かっていくことも難しいこと。だけど必ず残っていくもの、コンパッショネイト・ケアはまさに愛そのものであり、人の持てるかぎりの美しさを表したものであるように私は感じました。
今回も赤尾さんの姿勢から、たくさん学ばせてもらうことがありましたし、私は私にできることで、精一杯愛を表現していきたいと改めて感じました。赤尾さん、ありがとうございました!

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【2022/12/12~18の1週間限定販売】
並んだ窓の中に、それぞれの世界が広がっています。
患者さん一人ひとりとその家族、生活に寄り添うフレンズJAPANさんのコンパッショネイト・ケアを表現するものとして、自分の世界を精一杯、楽しく豊かに生きる動物たちを描きました。

“We are all friends“、「私たちは、皆友達だよ」という言葉を添えています。

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JAMMINは毎週週替わりで様々な団体とコラボしたオリジナルデザインアイテムを販売、1点売り上げるごとに700円をその団体へとチャリティーしています。
今週コラボ中のアイテムはこちらから、過去のコラボ団体一覧はこちらからご覧いただけます!

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