東日本大震災から6年近くが経ちました。
東北に大きな爪痕を残した津波の被害は、皆さんの記憶にもまだ新しいのではないでしょうか。
今週のチャリティー先は、NPO法人桜ライン311。津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市で、津波の最大到達点に桜の木を植え続けています。
一本、また一本。17,000本、170kmの津波最大到達点を示す桜の木のラインを目指して、後世に地震のことを伝えるべく東日本大震災の直後から活動を続けているNPO団体・桜ライン311代表の岡本翔馬さんにお話をお伺いしました。
桜ライン311代表理事の岡本翔馬さん。
桜ライン311
桜ライン311は、震災直後の2011年10月から活動を開始。
岩手県陸前高田市内の約170kmに及ぶ津波到達ラインに、10mおきに桜の木を植樹し、後世の人々に津波の恐れがあるときにはそのラインよりも上に避難するよう伝承していくことを活動の目的としています。
もし過去にどこまで津波が押し寄せたということが残っていて、それをきちんと地域の人たちが認識していれば助かった命があったのではないか。そんな思いで、活動を始めました。
実際、120年の間に4回も津波が来ているんです。先人の教訓を生かすことはできたんじゃないかと。
この石碑は、東北全体で300本はあるようなのですが、石碑があっても、それが何を示すものなのか人々に理解されなければ、あったところで役には立ちません。
後世に伝承していくものですから、まず人の寿命より長く、そしてずっと同じ場所に存在できるものである必要がある。
でも、石碑のように「建てたらそれで完全に終わり」というものでなく、人々の記憶に刻まれるようなもの、たとえば毎年一度花を咲かせるとか、紅葉するとか、実がなるとか、そんな変化性のあるものを設置していくことはできないかと考えたんです。
花が咲けば、実が成れば、人々の気を引きますよね。その時に、震災の教訓をふと思い返して欲しい。そんな思いがあったからです。
変化のある木というところでは、ほかにも椿や柚子の木、松やもみじの木も候補にはありました。
そんな中から、偶然も重なったりして桜の木が良いんじゃないかということになったんですが、今改めて考えると桜の木でよかったと思っています。
後付けなんですが、やはり桜に対しては日本人は特別な思い入れもあると思いますし、その美しさや艶やかさに魅せられる人は多い。
まずはそこから僕たちの活動に興味を持ってくださる方もいます。
復興中の中心市街地を見下ろす満開の桜の木。2016年4月撮影。
津波の最大到達点に桜を植えるということは、意図的に震災遺構を作るということでもありますよね。
地震と津波により壮絶な被害を受け、思い出したくない方もたくさんいらっしゃいますし、僕たちの活動の趣旨を理解はしてもらっても、いざ自分の敷地内に震災遺構を残すとなると、ためらう方もいらっしゃいます。
今がダメなら、それが事実。10年後にもう一度聞いてみる。
地域の方々に寄り添い、歩幅を合わせながら、一本ずつ植樹していきたいと思っています。
植樹風景。海が見えても見えなくても、桜が植えられたその場所が津波の到達地点。
地権者の方に確認をしてもらいながら、桜の木を植える場所を決めていく。
というのも、僕たちの活動って、自分たちだけでは何もできない。桜の木を植える場所にしても、今後の手入れにしても、周りの人たち、特に地域の方々の協力がなければ何もできないんです。
そして僕たちが植えている桜の木は、陸前高田の人たちの財産にならなければ、意味がない。陸前高田の方々が自発的に語り継いで、子どもたちにどう伝えていくかが大切なんです。
だから、長い目で地域の方々と一緒に進めていく姿勢が非常に大切だと思っています。
植えた後も施肥や剪定、病虫害への対策が非常に重要。5月〜6月後半はこの作業がほとんど。
僕は陸前高田の出身ですが、はやくに地元を出て仙台の大学へ通い、東京で建築関係の仕事をしていました。
地元では生きたいように生きられないと思っていたし、僕も含めて多くの人は進学や就職で地元を離れていく。至って普通のことではありました。
そんな中、東日本大震災が起こりました。
東京で自由にやっていた自分は助かって、地元で頑張っていた友人、消防団に入っていたり市役所に勤めていたりした友人が、避難誘導のさなか津波にさらわれて亡くなったんです。
「なんで自分は生き残ったんだろう?」そんな罪の意識のような思いがずっとありました。
もし津波がここまで来るとわかっていたら、助かる命があったのかもしれない。同じ結果にならなかったのかもしれない。そういう思いが、この活動を始めたきっかけではあります。
今は、そんな思いで始めたこの活動を支援してくださる多くの方がいて、その期待に応えたいという気持ちもとても強くなりましたね。
津波直後の陸前高田市の様子。壊滅的な被害を受けました。(写真提供:なかのや)
僕自身「地元では生きたい生き方ができない」と思っていました。だから、地元を離れ東京で生活することを選んだ。
でも、自分たちの生き様のようなものを陸前高田の子どもたちに見せることで「故郷に戻り、やりたいことをやる」という選択肢があるんだということを、「地元でも生きたい生き方ができるんだ」ということを、示したいと思っています。
亡くなった友人たちの分も楽しみ、悲しみ、一生懸命生きること。与えられた人生を生き切ること。それが、亡くなった人たちに対する、自分ができる精一杯のことですから。
東日本大震災はとても辛いことでした。しかしこの街の出身の自分としては、この震災を乗り越え後世に語り継ぎ、やがてプラスへと変えていく責務があると思っています。
この植樹会の目的として、もちろん木を植えることもそうなのですが、実際に津波最大到達地点に立ってもらうことで、東日本大震災を追体感してもらいたいという思いがあります。
津波の被害の大きさや「まさかこんなところにまで」とびっくりされるような場所にまで津波が来たことを実際に体感してもらうことで、その方がまた自分の住む地域に戻ってからも、防災・減災について考えてもらうきっかけになればと思っています。
植樹会の様子。全国から今までに3,300名を超える参加がありました。
桜の木が震災のことを知るきっかけになってくれたらと願っていますが、それ以外にも50年後・100年後、桜並木のもとに、地域の方々も、そして日本全国から、人々が笑顔で集まることができるような場所になってくれたら嬉しいと思っています。
そんな中で、17,000本の桜の木を植えるというものすごく大きい目標を完遂するためにどう動いていくかというのはひとつの課題ではあります。
また、時間が経って復興も少しずつ進んでいくなかで津波最大到達点がおぼろげになってきているところもあり、消えてしまう前に1本でも多くの木を植えたいという思いもあります。
有給のスタッフは6名。法人として6期めに入った2016年の集合写真。前列中央が岡本さん。
具体的にTシャツ何枚分のチャリティーで、桜ライン311さんの方でどんなことができるか、何に役立てられるかがあれば、教えていただけますか。
私たちが主に使う3mくらいの苗木で1本あたり12,000円〜15,000円なのですが、皆様からのチャリティーはこの桜の苗木を買うために使わせていただきます。
そしてまた、ぜひ成長した桜の木を見に陸前高田まで遊びに来てくださればうれしいです。
咲いた時に事務局にご連絡を頂く地権者さんも。「こういうコミュニケーションが僕らの財産」と岡本さん。
インタビューを終えて〜YAMMYの編集後記〜
東日本大震災が起きたとき、私は岡本さんと同様東京で働いていました。
オフィス街はビルから出てきた人でごった返し、地下鉄はストップ。生きてきた中で見たこともない、まるで映画のような光景でした。
しかしテレビで目にした被災地の光景は、もっと凄まじいものでした。地震、そして津波の被害を前に、言葉を失いました。
あまりにも痛ましく、被害を受けた地域の出身の友人にどう言葉をかけたらいいかわかりませんでした。
「地震はとても辛いことだったけれど、それを乗り越えてプラスにもっていく責務がある」と岡本さんがおっしゃっていたことが、とても印象に残りました。
前を見て進むからこそ、初めてそこに1本の道ができる。
岡本さんのポジティブなお人柄、桜ライン311の50年後、100年後を見据えた前向きな活動が、多くの人たちの絆を結び、一本一本の若い桜の並木道は、多くの人たちの思いが成し遂げていく絆のラインでもあるのだろうと感じました。
その絆にぜひ、あなたも加わりませんか。
若い桜の苗木が地面から顔を出しています。ここから地に根を張り、50年100年と成長し、春には毎年満開の花を咲かせる桜の木と、活動を始めて5年、地域の方々と協力しながら活動を続けている桜ライン311の活動はどこか重なる部分があります。
そんな思いをデザインしました。
A Line to Bright Future—未来を照らす一本の道。それは津波最大到達地点を後世に伝えるためだけでなく、震災を乗り越えて生きていく人々の歩んできた道のり、絆の証なのです。
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